箸の基本


 お恥ずかしいことですが、僕は未だに箸がうまく扱えません。 ハサミのようにクロスしてしまうのです。 小学校のころ「先割れスプーン問題」というのがありました。 学童達がスイカを食べるとき使うようなスプーンで給食を「犬喰い」するため、いずれ日本の食文化に弊害をもたらすのではないかというわけです。 僕は「鍵っ子」でしたから、帰宅するとオフクロの作り置きを犬喰いしながらテレビニュースなんぞを見ておりました。 折しも「全国各地の小学校で箸の持ち方教室が開かれました」というニュースで、どっかのオバハンが子供達に箸の扱い方を教えている映像が映ったのですが、おや?あのオバハンどこかで見たことがあるぞと思いました。 「ありゃウチのオフクロだ!」
 彼女は食物だか調理だかの教授です。 別に箸の専門家ではないのですが、「箸の本」みたいなものを出していることから、多分そっち方面にも関係があるのでしょう。 未だに現役で、殆ど家にいることがありません。 相応の歳ですがバアサンとは呼べません、ばりばりのオバハンです。 昨年の夏の初めでしたか、頭蓋骨を切断するような手術を受けた一ヶ月後には、タイだかマレーシアだかの学会に飛んで行っておりました。 とにかくエネルギーが詰まっているらしいのです。
 ある種のスーパーウーマンぶりは、昔からありました。 強化ガラスってご存じですよね、野球の硬球をブチ当てても割れないガラスです。 奈良女子大が新築になった頃、彼女はガラス扉と間違えてその強化ガラスに激突し、割ってしまった女です。 倒れてしまうと流石に危なかったのですが、第一発見者によると、彼女は破壊した壁を跨いで仁王立ちしていたそうです。 今ではいろいろガタも来ているだろうに、以前にも増して飛び回っている様子です。
 ウチの父母は理学・医学の博士号を持っており、どんな論文を出していたのかはさっぱり分かりませんが、なんとなく子供心に格好いいような気になっていました。 しかし、バカ息子は学士号も取らず、これと言って手に職もない放蕩者に育ったわけです。 高校生のころだったか、朝帰りしたら彼女にサランラップのノコギリのところで滅多打ちされたことがありますが、まあそういうような人間関係でしたね。 スイカ男の母親とは犬猿の仲で、自分の息子を駄目にしたのはそっちの息子だとお互いに思っていたのではないでしょうか。
 大学を中退しようというころ、たまたま帰宅して留守番なんぞしていると、何度か若い女から電話がありました。 「私、悩んだんですが、やっぱり大学に留まろうと決心しましたので、先生に宜しくお伝え下さい」などという内容で、「頑張ってね」などと応対したものです。 オフクロが電話口で「やる気さえあればできるのよ。せっかく入ったんだから卒業まで頑張りなさい」などと話している横で、バカ息子が残り物の惣菜なんぞを犬喰いしているというような絵もよくありました。 紺屋の白袴とはよく言ったもので、ある種エリートの彼女にとってどうしようもなかったのがこのバカ息子であろうと思います。
 その彼女、今年IBMのパソコンを購入しました。 前から“MS-DOS”で動くパソコンをワープロ目的で使っていましたが、学校のパソコンが“Windows”なので合わせておきたいという理由です。 さて、そうなると今度は僕が教える立場なのです。 しかし、大学教授というものは、人にモノを尋ねるという態度がなっちょらん。 挙げ句、メーカーのクレーム係のようにされてしまい、夜中に電話が掛かってくると「何だか箱が出てきて押すんだけれど書いたはずの論文が出てこないのよ」みたいな雲を掴むような苦情の相手をさせられ、ほとほと嫌になりました。 最近は相手をしないよう放っているので大分諦めてくれたように思いますが、ときどき「どうやったらインターネットが見れるの?あんた、見られるようにしてくれるって言ったじゃないの」というようなことをチラリと漏らしたりします。 ワープロでこの有様なのに、あのオバハンのインターネット接続のサポートをするなんて、考えただけでも気を失いそうになります。
 僕はどうも人にモノを教えるという才能が無いようです。 特に、教える相手が受動的な態度だったりすると、すぐ嫌になります。 最近、少年フットボールクラブのコーチをしていますが、とても忍耐が必要ですね。 もともと玉を蹴りたくてしょうがない連中が集まっているというのは救いなのですが、受け持っているのが小学校2年生で、奴らは人の話なぞ聞こうとしませんから統率するのに四苦八苦です。 無碍に怒りとばしてやる気を削いでもいけないし、ものの本には「コーチは太陽でなくてはならない」などと書いてあるので、今は好きなようにやらせるしかないのかなと思っています。 この前、他流試合があったのですが、しかしクラブによっては同年代の子供達でもしっかりしているのです。 ウチのチームは、まあ個人個人の力はあるのですが、戦略のない芋洗いサッカーでルールもろくに知らないラフプレー集団です。 対戦したあるFCは、ポジション取りもしっかりしており、ゲームがウチのゴール前ばかりになってもバックが2,3人ちゃんと残っています。 業を煮やして、「コーチ、攻めてもイイですかー?」と伺いを立ててからワーッとやってきましたね。 挙げ句、ウチのチームは審判に暴言を吐いたとかで厳重注意を喰らっている始末、指導力の差が露呈しておりました。
 確かに、いいコーチに巡り会えればそれはその人の財産になるでしょうね。 しかし、結局のところ、「教わる」という姿勢から得られるものはほんの基本であって、それ以上のものは盗んだり捻り出したりするものだと思いますし、魅力的な人材というのはそういう姿勢の人に多いように思います。 だから、誰々に師事すれば或る意味で最低限の保証が得られたような安心感があるかもしれませんが、実のところコネができる程度の効用しか無いのかも知れません。 やっぱり自分で獲得する姿勢が肝心です。 「教わる」という姿勢のなっちゃいないウチのオフクロでさえ、何やかやと仕事が出来ているみたいですからね。 もっとも、基本を知らないと言うのはハンディーだと思いますがね。 たまたま或る人から聞いたのですが、つい先日もオフクロがテレビで箸の話をしていたらしい。 言っといてくれりゃビデオぐらい録っといてやったのに音沙汰なしです。 但し、彼女も今回ばかりは番組の中で「ウチの息子は未だに箸が使えません」と白状していたそうです。

--- 16.Sep.1997 Naoki


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