サンホセへの道


 仕事で米国のサンホセへ行ったことがあります。 ホリデーインに泊まり、外に出るのが億劫だったので、ルームサービスを利用しました。 ちょっとおやつをオーダーしただけで丸座布団のようなピザとバスケットいっぱいのパンを運んでくるのには閉口しましたが、いいこともありました。 500円ほどの「ハーフサイズの紅茶」というのがメニューにあったので、これならよかろうとオーダーしたんです。 すると、スパニッシュ系のチャーミングなメイドさんが、ハーフサイズのポットといろんな種類のティーバッグ1ダースとお約束のパンが乗ったお盆を片手で顔の高さに持ち上げ、もう一方の手を腰に当ててモンローウォークで「ハ〜イ」と部屋に入ってきたんです。 感激しましたよ。 映画のワンシーンみたいでドキドキしちゃいました。 それだけでも感激ですが、お盆にピンクのカーネーションの一輪挿しがあしらってあったので更に感激しました。 一輪挿しといっても、多分あれは単なるガラスのコップではなかったかと思いますがね。 それでも異境の地にあって不安な我が身としては、なんとも心和む紅茶セットでした。 これに味をしめて再度オーダーしましたが、そのときは他のメイドさんで、一輪挿しはありませんでした。 ということは、あのカーネーションは紅茶セットの一部ではなく、例のスパニッシュちゃんなりの歓迎挨拶、もてなし、気まぐれ、或いは自己主張であったのかも知れません。
 親切な国民性のはずの日本ではどうでしょう。 すかいらーくのアルバイトで「いらっしゃいませデニーズへようこそ」と言ってしまった女の子の話を知っていますが、あのロボット挨拶は気味悪いと思いませんか。 前にロイヤルホストでレモンティーを頼んだとき、「レモンティーはレモンにしますかミルクにしますか?」と訊かれて仕方なく「レモン」と答えたことがありますが、ファミリーレストランやファーストフードって決まり文句が多いですよね。 応対マニュアルか何かがあるんでしょうね。 サービスも通り一遍って感じがします。 日本的っていうと、僕はむしろそういう風景を連想してしまいますね。 昔はそんなことなかったんでしょうけど。
 こういう一律平板でドライな風景というのは、至るところに蔓延しているように思いませんか。 それには、周りとの軋轢を避けようということなかれ志向とか、みんなと同じように振る舞えば間違いがないという前へ倣え志向とか、いろいろと要因が考えられるだろうと思うのですが、気掛かりなのは近年特にそんな傾向が強いように感じられるし、しかも何か妙に冷淡で無表情な雰囲気がするということです。
 小売業で言えば、大店舗やフランチャイズチェーン店が増えて便利になったしサービス内容も向上したという側面はあるんだけれど、何か欠落してきたものもあるように感じます。 平たく言えば、人が人を考える力のようなものが失われてきたということでしょうか。 そんなことはない、コンビニエンスストアなどは購買動向を性別や年齢層まで詳細に分析して対応しているぞとお叱りになる方がいらっしゃるかも知れません。 しかし、その分析の対象は、人ではなく大衆というべきです。 そして直接その分析を行っているのは、人ではなくコンピューターです。 つまり、コンピューターで大衆の動向を分析しているだけです。
 大衆について考えることは必要です。 サービス業界や製造メーカーはもちろん、政治家にとっても最重要課題の一つでしょう。 ただ、政治家の先生方が大衆をお考えになるとき、ご自分のご家族やご友人とご同様に血の通った存在として見ておられるでしょうか。 お役人と来た日には、面倒なのでいちいち例を引きませんが、直接利害がないからもっとひどい場合がある、大衆を人として扱っていない場合がある、というのは衆目の一致するところでしょう。
 「タレント」がよく口にするところの「一般の人達」もまた大衆一般を差します。 「ミュージシャン」があてにしている「ターゲット」もそうでしょう。 本来個人的な宇宙の触れ合いの場という側面を持つはずの音楽が、様々に応用され、利用され、その恩恵を被っているのが音楽家だったり音楽業界であったりします。 ところが、彼等が大衆を掌握することに没頭しているせいか、どうも風景は一律平板で、うそ寒く感じているのは僕だけでしょうか。 もっとも、彼等を支持する「一般大衆」がいるんだから文句は言えないのですがね。 でも、僕はこういう風景がこのまま広がっていくとは思いません。 今は、たまたま歩むべき道を見失って、考える意欲をなくしがちな時代なんです。

--- 23.Jul.1997 Naoki


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