レオの選択

 昨年暮れ、レナード衛藤の「ブレンドラムス」 2011年たたき納めライブに行ってきました。 彼のことを小生は「エトート」などと呼んでいるのですが、 兄でパーカッショニストのスティーブ衛藤(エトー)と識別するためです。

 衛藤家は元々音楽一家で、お父上は盲目の琴奏者、生田衛藤流宗家の衛藤公雄さんです。 バイオリンの江藤俊哉さん(こちらは別のエトー)に続き、 日本人で二番目にカーネギーホールでコンサートを行った方で、 三人の息子は皆音楽関係に進みましたが、誰もお琴は継ぎませんでしたね。

 学生の頃、エトー(スティーブ)とバンド仲間だったので、 渋谷の教室や鎌倉のご実家に何度かお邪魔させて頂きました。 鎌倉のご実家には庭の隅に納屋のようなものがあって、 その前を通るとき、中から雷がバケツをひっくり返しているような音がしていた、 これが実はエトートで、納屋の中にはドラムスがセッティングされていたんです。

 中から出てきたのは、筋骨隆々とした裸の上半身から湯気を上げ、 めがねを掛けた硬い表情のロボットのような青年でした。 ニコリとも笑わない鉄面皮で「はじめまして」と挨拶されましたが、 それが今やこんなに伸びやかでしなやかな太鼓奏者になろうとは。 緻密且つ柔軟なステージのみならず、 ステージパフォーマンスで会場を爆笑させるくらいですから、 いやぁ、人間というのは進化するもんですね。

 この「ゆるの境地」はアフリカ体験から学んだのだと以前伺いました。 昨年のアフリカ遠征では、東アフリカを回ってきたようですが、 政情不安だったろうに、エチオピアでもだいぶ演奏したようですね。 特に今回は、子ども達との触れ合いにインスパイアされたらしく、 日本でも高校生相手に演奏したり、若手太鼓奏者と共演したり、 自分より若い人たちと接する機会が増えているようです。 「俺、対等にやり合っちゃいますからね」とは口にするが、 やはり(人生の)後続を慈しむようなオーラが出ていました。 まぁ、人間というのは進化するんですね。

 彼の演奏を聞くのは10年ぶりほどでしたけれど、 今回は若手(ティーンエージャー)の和太鼓奏者や ドラムプレーヤー、タップダンサー達とのコラボでした。 彼が演奏するのは主に和太鼓で、 古典的な要素もふんだんに取り入れられているのでしょうが、 むしろ彼が若い頃に傾倒していたドラマーのジェフ・ポーカロや、 これは小生が好きだったロックドラマーのジンジャー・ベイカーを 彷彿とさせるようなビートが奏でられていました。 とても円熟し、且つ過激になっていて、 今後益々楽しみに感じられました。

 太鼓の特長の一つは、たたいたら最後、 もう修正が利かないところではないでしょうか。 知り合いのトロンボーン奏者が、管楽器も同じだと言ってましたが、 もちろん、どんな楽器だって修正は利かない、音を出す瞬間が重要です。 けれど、太鼓は、素人目にも分かるくらい一発勝負の連続ですから、 否応なくデリケートで、否応なくダイナミックです。 そこから紡ぎ出される時間というのは、 まるで繰り返される発明のようです。

 発明というと、俗に特許とか技巧のような気がしますが、 要はこれまでなかったものを生み出したようなイメージですよね。 例えば数学的な発明というのは、理屈じゃないんだそうで、 あるとき突如訪れるのだと日本有数の数学者岡潔氏が書かれていたやに記憶しています。 同様のことを、フランスの数学者ポアンカレが不思議がっていたそうです。 まぁ、数学なんて聞いただけで頭が痛くなるので思いも及びませんが、 これとよく似たことを、何人ものミュージシャンが吐露しています。

 フリージャズドラマーのミルフォード・グレーブスは、 自分は何も創造などしていない、ただ 「宇宙の様々な線が突如自分を通り抜けて出ていくのだ」 みたいなことを言っていたように記憶しています。 手品のように無から有を生み出しているのではない、と言っていますね。

 ジャズトランペットのウィントン・マルサリスは、 インプロビゼーション(即興演奏)の巨匠のように思われますが、 「ジャズには制約が必要だ」と語っています。 「そうでなければ、ただの雑音になってしまうよ」。 制約された中から最適の選択肢を直感的に判断する、 その直感的な判断には知識が必要なんだそうです。

 棋士が手を読むのも同じメカニズムのようです。 スーパーコンピューターは、あらゆる可能性を重み付けし、 その比較計算から最善手を判断します。 将棋より組み合わせの小さいチェスでさえ、 8手先の場合の数は銀河系の星の数ほどになると言います。 ところが棋士は、そのときの盤面から直感的に有力手を限定し、 即ち検討が無駄だと思われる悪手凡手を排除し、 浮かび出た手筋を深読みして最善手を導き出します。 盤面を目の前にしたときの、この直感的判断は、 知識、それは経験的知識、直感的知識とでもいうべきものでしょうが、 それがあって初めて機能するようです。

 こういったことに関して、コロンビア大学のシーナ・アイエンガー教授も、 著書「選択の科学(Art of Choosing)」の中で触れています。 同著には、面白い記述が多々あるのですが、その一つをご紹介させてください。

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 フランスの数学者、科学思想家のアンリ・ポアンカレはこう言った。 「発明とは、無益な組み合わせを排除して、 ほんのわずかしかない有用な組み合わせだけを作ることだ。 発明とは見抜くことであり、選択することなのだ」。 わたしなら後の文をちょっと変えて、違う説を唱える。 「選択とは、発明することなのだ」。

 選択は、創造的なプロセスである。 選択を通じてわたしたちは環境を、人生を、そして自分自身を築いていく。 だがそのために多くの材料を、つまり多くの選択肢をやみくもに求めても、 結局はそれほど役に立たない組み合わせや、 必要をはるかに超えて複雑な組み合わせを いたずらに生み出すだけで終わってしまうのだ。

 わたしたちはもっともな理由から、賢明な選択をすべく、日々努力している。 だが選択肢を生み出し、要求し、さらに多くの選択肢を生み出すことに終始して、 選択がどんな時に、なぜ役に立つのか、考えもしないことが多い。 そこで、制約が独自の美と自由を生み出すことを、身をもって示してきた人たちに目を向けてみよう。 発明家や芸術家、音楽家は、選択に制約を加えることの意義を、とうの昔から知っている。

<中略>

詩人のリン・ヒージニアンは、エッセイ「閉鎖の拒絶」(The Rejection of Closure)の中で、 「形式と……[著述]作品の題材との関係」について、次のように述べている。

形式は、根源的な混沌(手を加えていない題材、組織化されていない情報や衝動、不確実性、不完全性、広大さ) に備わった、大いなる活力と生成力を損なわずに、それを明確に表現することができるだろうか?
形式は、さらに踏み込んで、秘めた力を開放し、不確実性を好奇心に変え、不完全性に思いをめぐらし、 広大さを豊かさに変えることはできるだろうか?
わたしの考えは、イエスだ。
それこそが、形式が芸術において果たす役割なのだ。
形式は、固定的なものではなく、つねに流動している。

--- 2012/01/06 Naoki

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