ものづくり

 ものづくりニッポンなんだそうです。 ものを作るとか、作詞作曲をするとか、チームを作るとか、街を作るとか、 そもそも「作る」というのはどういうことを言うんでしょう。 先ず「作」という字ですけれど、人が木の枝を刃物で切り落とすような象形文字からきているのだとか。 枝を使うのか幹を使うのかは知りませんが、まぁ、何か作るんでしょうね、道具でしょうか。 道具を使うのは人間様だけだと考えられていましたが、猿、鳥、虫に至るまで、道具を用いる動物というのは案外いるらしい。 とはいえ、人間様ほど複雑な道具、メカだとかITだとかを作る動物は、なかなかいないでしょうが。

 次に「つくる」という大和言葉はどうなんでしょう。 こちらは諸説いろいろありましょうから、これだと断言できるものはないかもしれませんが、 「つく」と「る」の膠着語だろうな、という感じがします。 というのは、「く」と「る」というシラブルが言い分け辛いし聞き分け難いですから、 これ、無理矢理くっつけたでしょ、という雰囲気がありますよね。 そこで「つく」なんですが、漢字変換してみると、 「付く」、「突く」、「点く」、「着く」、「就く」、「憑く」等々、ごまんと出てきます。 もともとの大和言葉に大陸から来た漢字を当てて行ったのでしょうから、 「つく」の言わんとした意味というのは、これら全体に共通するニュアンスなのでしょう。 そうすると、離れていたものを押し当てるような、接触方向の動きに感じられます。

 だからなんなんだ、ってことですけれども、どうも離れていたものを押し当てるような行為、 すなわち「つく」をすることを、「つく」+「する」=「つくる」と、こんなふうに動詞化してきたのでは、 ナイカナ?(←二代目・桂枝雀さんのように人差し指を立てた右手で円を描きながら寄り目をむくと良い)と思うんです。 ですから、ビートルズが教会音楽にロックンロールを押し当てて名曲レット・イット・ビーを作った、とか、 スティーブ・ジョブズがiPodにMacを押し当ててiPhoneを作った、といったことは、実に理に適っているわけですね。

 一方、「創る」という言葉があります。 これももちろん「つく」+「する」=「つくる」の当て字なのでしょうが、漢字の意味するところはどうなんでしょう。 これは、穀物倉庫に刀を当てて傷をつけるような字なんだそうで、どうしたんでしょうね、 なにか目印をつけたんでしょうか、それとも粟稗を奪いたかったんでしょうか。 いずれにせよ、それまで倉に傷はなかった。 ところが、刀を押し当てたがために傷ができてしまった。 無かった傷を出現させた。無から有を生んだ。 そんなことで、「創造」、「創生」、「創意」、「創業」、「創刊」なんてときに使われる漢字です。

 なので、「つくる」という言葉には、無から有を生むような神秘的なニュアンスも加味されているようですね。 無から有を生む、そんなことがあるのでしょうか。 アレキサンダー・ビレンキン博士によれば、なんと宇宙そのものが無から誕生したのだそうです(ビレンキン仮説)。 ジェームス・ハートル博士とステファン・ホーキング博士によれば、そもそも無と有の境界すらおぼつかないらしい(無境界仮説)。 ま、最先端の科学では、こんなようなことになってるらしいです。 なんか、エネルギーの壁を乗り越えればいいみたいですね。 ならば、無から有を出現させるには、不思議な呪術や特別な技術というよりも、 無から有にエイヤッと転化させる気合いのようなものが必要なのかもしれません。

 こうなると、もう、そもそも論ですね。 そもそも無とは何なのか、有とは何なのかです。 先ず、「無」という字ですけれども、これは人々(象形文字には二人描かれている)が これからダンスを始める様子を表しているのだそうです。 そういえば「舞」という字も似てますね。 なので、何かを失ったとか盗られたとかいう絵柄ではなく、 ことが始まる直前の瞬間、いわば前述のビレンキン仮説と相通じる無です。 大和言葉では「ない」と読まれます。 諸説ありましょうが、遠くシュメール語の「ヌ・ムッシェン」から来ているのだという説があります。 これ「ヌ」という鳥、「ヌ鳥」の楔形文字の発音なのだとか。 どんな鳥かというと、梟(フクロウ)だそうです。 象徴的な鳥なんでしょうね。 鳥は飛びたつと居なくなります。 転じて、消滅や死を表す文字になったらしい。 この「ヌ」の方が世界じゅうの否定詞(not、nicht、ない...etc.)に展開し、 「ムッシェン」の方が漢字本来の音読み「む」に行きついたという説を、 川崎真治さんという言語学者が唱えておられました。

 はい、次は「有」ですね。 これ、右手で肉を持っているの図なんだそうです。 きっと古代、狩りから帰ると奥さんから「お父さん、獲物は?」と訊かれ、 「有るよ」(←ドラマ「HERO」で田中要次さん演じるスナックのマスターが難しい注文にも見事に応じるときの渋い声が良い) と答えたのが語源なんでしょうね。 大和言葉の方については、残念ながら蘊蓄(ウンチク)なしです。 なので、前述の方法を踏襲し、当て字からのリバース・エンジニアリングで想像してみましょう。 「有る」、「在る」、「或る」・・・こんなところでしょうが、これらに共通するニュアンスとは何か。 「有る」は所有する感じ、「在る」は存在する感じ、「或る」は・・・これは何なんでしょうね。 どうも、杭と囲いと区切り線の会意文字(組み合わせ文字)らしいです。 土を区切ると「域」、周りを囲むと「國」つまり「国」になりますね。 ですから、単位のようなイメージでしょう。 英語でいう冠詞の'a'みたいなものかな。 "a man"と言うと「一人の男」とか「或る男」となりますからね。 いわば、一個として認められるもの、数えられるもの、そんなニュアンスでしょうか。

 すると、獲物を得られたかどうかわからない、存在しているかどうか見えない、混沌として見分けられない、 そういった不安、暗黒、無秩序の中から、やおら何かを発見したとき、大和民族は「ある」と口走ったのではないでしょうか。 ならば、「作る」というのは、何かが見えるようにすることですね。 安堵、光、秩序、そういったものを誰かに呈示することだと思います。 誰にでしょうか。 まぁ、自分でもいいし、観客や聴衆、道行く人、異国の人、人じゃなく動物、植物、神様でもいいんでしょう。 誰かが「ある」と気付いてくれるものを、不安や暗黒や無秩序の中からエイヤッと押し出したとき、 そりゃきっと何かを作ったんですよ。


若い頃というのは創作意欲が旺盛だ。
如何せん知恵も技巧も答も持たない。
歳を取ると創作意欲は衰退していく。
如何せん知恵も技巧も答もまだない。
ジョブズにディランが言ったそうだ。
昔のように歌を書くことはできない。
けれど、僕はまだ歌えるよ、と・・・


--- 2016/7/14 Naoki

back index next