オクテオトコ

 映画「男はつらいよ」の主題歌を歌っていたのは、寅さん役の渥美清さんでした。 星野哲郎さん作詞、山本直純さん作曲というゴージャスな歌が、渥美さんの情感たっぷりな声で唄い上げられていました。 原作は1番から5番まであると聞きますが、レコードは1番、2番、3番のサビという構成で、前後が威勢の良い仁義言葉で挟まれています。

 「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です・・・」で始まるお馴染みの台詞もさることながら、楽曲の最後の下りがこれまた粋です。 「兎角、西に行きましても東に行きましても、土地土地のお兄(あに)いさんお姐(あね)えさんにご厄介かけがちなる若造です。 以後、見苦しき面体お見知りおかれまして、向後万端(きょうこうばんたん)引き立って宜しくお頼ん申します」。 惚れ惚れするような啖呵ですね。 負けず劣らず、唄の文句も印象深いフレーズ満載です。

 先ず「今日も涙の陽が落ちる」というところ。 サザンオールスターズの名曲「いとしのエリー」の「誘い涙の陽が落ちる」というキラーフレーズに通じるものがありますね。 寂しくも軽妙な独特の情緒を感じます。 「目方で男が売れるなら」という文句も出てきます。 この発想、勤務先で開発規模を「人月」とか「人日」といった単位で見積もるのに似ています。 実際は技術者の個性やチームワークによって開発の効率にも質にも雲泥の差が生じるのですが、そこまでは見てもらえない、「人的資源」というやつです。 目方とまでは言わないが頭数で計られる、逆説的ですが、共通の悲哀が漂います。

 最後のサビは、こんな感じです。 「男というもの辛いもの、顔で笑って、顔で笑って腹で泣く、腹で泣く」。 この感覚というのは、良くも悪くも、青少年には理解し難いのではないかと思います。 本来、男性というのは闘争的で、怖いもの知らずで、勇敢でなくてはならない。 ところが、社会の中に立つことで、徐々に腹心が備わって行きます。 若年のうちは隠れていますが、中年になると出っ腹になるように、やがて機能し始める、腹芸というやつですね。 一見後天的なもののようでいて、過去何千年、あるいは何万年という闘争の結果備わった、男達特有の遺伝子かもしれません。 大局を見据えた政治的な言動、長い物には巻かれろ的な事なかれ主義、五月蠅い女房には逆らわないという生活の知恵、それらは老練な男性に特徴的な、良く言えば社会性、悪く言えば情けない習性だと思います。

 「男はつらいよ」に限らず、歳を重ねて良さが分かってきたものに、時代小説があります。 小説などというものに無縁だった小生が、ここ数年読み漁っている作家がいます。 藤沢周平さんです。 藤沢さんの作品は、市井ものであれ、剣豪ものであれ、歴史ものであれ、あるいは稀有な現代小説や実験的な小作品であれ、人を惹き付けてやまない共通した微風のようなものが支配しています。 一つは、心象風景としての自然描写。 これが先ず秀逸なので、読者としては苦も無く小説の中に引き込まれます。 次に筋立て。 思えば大筋は似たり寄ったりなのですが、なぜか新鮮でいつも心乱され、どんどん読み進みたくなります。 そして、なんと言っても登場人物のリアリティー。 どんな史実に基づいていようと小説そのものはフィクションであるはずなのですが、老若男女を問わず各々が備えている独特の根源的な価値観、考え方の傾向、内面的な葛藤といったものがリアルで、理屈ではなく情緒として共感させられてしまうのです。

 ここに登場する男性たちは、もれなく腹心と共生しています。 御家転覆を企む黒幕も、吝い老中も、品行卑しい同心も、命知らずの隠密も、出奔した侍も、駕籠訴に臨む百姓も、渡りの職人も、小間物屋の亭主も、盗人も、若い牢医師も、かくれんぼの途中で刃傷沙汰を目撃してしまった子供も、もはや痴呆の域に達してしまった老夫までも、全員が各々の腹心を持ち、あるときは顔で笑って腹で泣き、あるときは腹で笑って顔で泣き、またあるときは腹芸から意外な行動に出てドラマを巻き起こすのです。 江戸時代の年号も将軍の名前もろくに知らない歴史音痴の小生が共感してしまうのは、藤沢さんが現代社会を上手く比喩されているというよりは、そこになんらかの普遍的なもの、もっとスパンの長いもの、遺伝的要素のようなものがあるのではないかと感じます。

 一方、小説には、様々な女性も登場します。 もちろん陰日向のある女も、内に秘めた心を持つ女も、思慮深い女も、思いもよらぬ行動に出る女もいます。 ですが、どうしても彼女達のそれは、腹心とか腹芸といった類のものに感じられません。 むしろもっと純粋で、哀しいほど浅はかで、鋭角的で、一心不乱で、腹心というより利他的な心に満ちているような印象です。 あるテレビ番組で、藤沢周平ファンを自称しておられる女優の野際陽子さんが、「どうして藤沢先生はあんなにも女の気持ちが分かるのかしら」と不思議がっておられました。 藤沢作品に登場する女子は、貧乏浪人の妻、リタイアした侍の奥方、商家の娘、飯屋の女将、市井の女房、大奥のお局、幼い少女、白粉女、夜鷹、妾、出戻り、くノ一など多種多様ですが、各々にリアリティーを持ち、各々に独特の魅力を醸しています。 野際さんは、「私は藤沢作品に登場する女性たちのファン」だと吐露しておられました。 自分もそう思います。 いやぁ、そうですよ。 よく分かっておられる。 よく分かる。 分かる?

 これは面妖、自分に女心が分かるとは到底思えません。 年々歳々、むしろ異質性ばかり目につくようになってきました。 いや、男心にしたって、やはり他人様というのは異質なものだと感じるようになりました。 にも関わらず、小説に登場する様々な男女に共感してしまうのは何故でしょう。 ひとつは、もちろん、藤沢さんの感性と表現力のなせる業です。 もしかしたら、肉眼以外に、心眼のようなものをお持ちで、それを介して様々な男女の内面を観察しておられたのでしょうか。 まぁ、そこは推察しかねる部分です。 でも、もう一つ原因がありそうです。

 それは、齢を重ねて、ようよう自分がそういう小説を読めるようになってきたということでしょう。 単に言葉を覚えたとか文脈を追えるようになったとかいうことではなく、そこから読み取ったものを混沌とした自分の記憶のどこかに照らして、ふっと浮き上がらせること、自覚することができるようになったのではないでしょうか。 異性を、他人を、異質だと思うようになったというのは、それだけ分かるようになってきたということの裏返しなのかもしれません。 人間、分からないものは、分からないのです。 分けられないのです。 分けられるのは、分かれた双方が分かるようになってきたからではないか、という弁証です。

 地球上に男女の別が生まれたのは、大凡9億年ほど前だと推定されています。 地球が生まれて46億年ほど、寿命はあと50億年ほどと言われていますから、1億年を1年として長寿な人に喩えれば、地球は現在46才といったところ。 子どもがいるなら思春期、親の手を離れつつあるところでしょう。 核のような危ないものを扱ったり、たまにキレたり、子どもは反抗期かもしれません。 「母なる地球」と言いますが、ここはオッサンに喩えてみると、まぁ、働き盛りといったところでしょうか。 このオッサンに男女の認識が芽生えたのは9年前、すなわち37才のときという計算になります。 いやぁ、晩生ですね。


--- 2014/5/21 Naoki



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