ピポパの人権

 小春日和の昼下がり、出先からの帰り、初台から渋谷に向かうバスに乗りました。 幸運にも運転席後部の席に座ることができたもので、窓の外を眺めたり、まどろんだりしておりました。 最近のバスは、フロアを低くするなど少しでもバリアフリーにという工夫や、信号待ちなどの停車中はエンジンのアイドリングをストップして排気ガスを抑制するといった工夫が凝らされていて感心します。 もっとも、再発進するときに大量の排気ガスが発生するので、アイドリングをストップした方が本当にいいのかどうか、追跡調査も必要でしょうね。 それと、停車中にシーンと静かになってしまいますから、こういった小春日和の日は本当に睡魔が襲う。 運転手さん、頑張ってくださいね。
 その日も、バスは停まる度にエンジンをストップし、静寂の一時を与えてくれるのでした。 ところが、どこからともなく、微かではありますが、DTMF音が聞こえてくることに気が付きました。 プッシュ式の電話機のダイヤル釦(これって変な言い方ですけど)を押したとき、ピ・ポ・パと音がする、あれです。 昔の電話機は、輪になったダイヤルを回し、バタバタバタと電話線を瞬断させて電話を掛けていました。 これをDP(ダイヤル・パルス)方式と言い、実はハンドセットを置くクレイドル(揺り籠の意味)にあるフック釦を叩いても同様にダイヤルすることができるので、そうやって遊んだ方もおられるでしょう。 一方、PB(プッシュ・ボタン)方式は、DTMFと呼ばれる2つの音程の組み合わせをダイヤル信号とします。 音が信号ですから、特にヒステリックになった女性の声なんかで誤動作することがあります、甲高いですからな。 最近では、ISDNというデジタル回線が増えましたが、このDTMF音はインバンド(音声帯域)信号としてまだ活躍していますから、ピ・ポ・パは馴染み深い音です。
 通信機業界で糊口を凌いでいる自分としては、この微かなピポパが何処から聞こえてくるのか不思議でしたが、とりたてて気にはならず、ちょうど昼下がりの静寂の中で低く鳴くハトの声のようで、ますます眠気を誘うものでした。 そういった一時停車が繰り返されていた何度目かのとき、いきなりです、まさにいきなり左側の席に座っているらしき中年の女性が怒りだしました。 「あんた、何やってるのよ!やめなさいよ!」
 何を言っているのかよくわかりませんでしたが、親が子を叱っているのか、或いは仲間内で何かトラブルが発生したらしいと思いました。 せっかくいい気分でまどろんでいたのに、とんだ災難です。 バスには二十人くらいが乗り合わせていたように思いますが、只聞こえるのはオバサンの怒鳴り声だけで、とりわけ騒動が持ち上がったような雰囲気でもなく、そのうち収まるのだろうと思ったので、そのまま再び瞼を閉じました。
 また二三の停車を繰り返し、相変わらず微かなピポパを聞いていると、再び怒号が飛びました。 「やめなさいって言ってるでしょ!バスの中じゃ携帯掛けちゃいけないのよ!」 そのときやっと分かりました。 どうやら、あのピポパは携帯電話から発せられていたもので、オバサンはそれに怒っていたのです。 「携帯なんか掛けてないっすよ、メール打ってるだけっすよ」、 「同じだって言うの!携帯なんでしょ!」、 「同じじゃねぇよ」... 若者らしき携帯の持ち主は、ピポパを止めようとはしませんでした。
 次のバス停に着いても、論争は続いていました。 僕は、ことの馬鹿らしさに口を挟む気力もなく、むしろその或る意味で慇懃無礼なオバサンと無知蒙昧な若者のやり取りを楽しんでおりました。 すると、やおら運転手が「ハァ〜」と大きく溜め息をつき、拡声装置を使ってこう言いました。 「はい、その電話の音止めてください。音が出ないようにできるでしょ」、 「関係ねぇよ」、 「はい、だったら降りてもらいますよ。降りてください、他のお客さんの迷惑になりますから、ここで降りてください」...なんとその若者は、ピポパ発生装置と共にバスを降ろされてしまったのです。
 哀れな彼を残して再びバスが走り出すと、オバサンは、誰かに話しかけるように、しかし実際に連れはいなかったのであろうと思いますが、大きな声でこう言いました。 「運転手さん、ありがとう。ほんとにもう、ちゃんと言ってやってくれないと、なんだか私の方が悪者みたいに思われちゃうんだからねぇ」。 いや、実際自分にとっては、そのオバサンの方が悪者でした。 何故かって、せっかくの小春日和の昼下がりを台無しにしてくれたんですから。
 バスの中は、いろんな人が乗り合わせる、いわば小さな匿名の広場です。 天井があって窓があって、或る意味では全員にとってのプライベートな空間なんですが、そういうのを「公共」というんでしょうね。 プライベートな空間では、お化粧を直そうが、電話を掛けようが、エロ漫画を楽しもうが構わないわけですが、みんなのプライベート空間、即ち公共の場では許されない、だから携帯も掛けるなということになっているわけで、そのことは充分理解できます。 従って、その若者は、公共の場についての理解がなかったし、キータッチ音の消し方も知らなかったのだからあまり頭も良さそうじゃないし、オバサンの非難を交わせなかったのだから賢明とも言い難いと思います。 唯一誉められるのは、運転手の命令に従ったこと。 きっと、自分が降りないとバスが発車しないので、他のお客さん方に迷惑が掛かると感じたに違いありません。 それでは、オバサンはどうだったでしょうか。 少なくとも初対面の人間に、ああいう口をきくのが淑女のやることでしょうか。 物事がよく分かっている大人の振る舞いとも思えないし、言われた方も引っ込みがつかなくなるってもんです。 そもそも、公共性をよく認識していたのはどちらでしょう。 果たして、どちらを憂うべきでしょうか?

(正解:知らん顔して狸寝入りしてたヤツ)
--- 7.Feb.2000 Naoki

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