漁師の波止場


港町青年団

 先日、大学サークル時代の後輩のイシキンさんから、昭和56年早稲田祭の「港町青年団」の収録テープを戴きました。 イシキンさんは、後ほど再登場します。 「港町青年団」というのは、現在は出世して大工の棟梁をしているお兄ぃと、現在はきっと日本海側で幸せに暮らしているお姉ぇと、当時いけすかない青二才で現在いけすかないじじぃと化したギター弾き、即ち僕の三人組のバンドです。 棟梁と僕のギターに合わせて、全員で歌ったり、コーラスをしたりします。 このバンド、確か計2回の演奏しかやらなかったはず。 一度はJR横浜線沿線にあった楽器屋の小ホール、もう一つがこの早稲田祭というわけです。 今はなき文学部181教室という数百人規模の講堂のようなところで、お世辞にも音響が良いとは言えません。 まして、学生時代の演奏というものは、後から聞くと顔から火が出るような場合が常ですから、これにしてみたところで嬉し恥ずかし鼬の穴蔵みたいなもんだろうと鷹を括っておりました。 ところがところが、聞いてみると、これが案外だったのです。

 そもそも、お姉ぇの歌声が比類ないほど素晴らしく、歌の世界がパァーッ!と広がっている。 棟梁のかもし出す温かな雰囲気が、会場全体を包み込んでいる。 青二才のギターとて、なかなか心がこもっていて、自由で表情があってよろしい。 そして、バックコーラスなどアレンジが洒落てる上に、全体の息がぴたっと合っている。 各々の個性は全然違うのだけど、演奏においては正に一丸となってて、いやぁ、実に楽しそうなんですよ。 「あぁ、これがバンドだよなぁ‥」と思わず胸を締め付けられる思いが。

 出しものは、青二才の「狐の嫁入り」、「ごめん」、「ジャングルジム」、「白い船」、そして棟梁の「航跡」。 1曲目なんかこのときの演奏が最初で最後だっただろうし、青二才自身忘れてしまっていたのだけれど、20年近く経ってから却って輝きを増してきた感じ。 その他、どれも予想以上に素敵な出来栄えなのです。 いやぁ、自画自賛! でも、他人がやってるみたい‥。 このうち3曲が、海に因んだ歌詞になっています。 「港町青年団」というバンド名も、そういう歌の世界に因んでのもの。


臨海合宿

 海。 奈良県育ちの僕にとっては、幼い頃の海水浴の記憶がおぼろげながら残っていたとはいうものの、海といえば「ゴジラ・モスラ・エビラ南海の大決闘」の舞台であり、「潜水艦シュービー号」や「サンダーバード4号」のプラモデル達が活躍する薄暗い場所であり、「クストー博士」が活躍するブラウン管の向こう側の世界でありました。 物心つくようになってやっと海を実感したのは、キャンプに連れて行ってもらった沼島(ぬしま)の海岸。 淡路島の南にある小さな島で、灰色の砂浜や磯があり、当時の海は頗る美しく、正に楽園という感じでした。 テントに泊まり、自分達で釣った魚を食べます。 大人は磯からも釣っていましたが、子供は浜から投げ釣り。 浮きはなく、砂浜に突っ刺しておいた竿の先の鈴がチャリチャリと鳴ると魚が掛かった合図。 いや、実に楽しかった。

 それから父には何度か釣りに連れて行ってもらいました。 親子で冬の海にはまって来たこともあります。 僕は貝を捕ろうとしてテトラポットの間に滑り落ちました。 冬着のまま潜り込んで、ゴボロゴボロと泡の音を聞きながら、キラキラと海の天井が見えましたよ。 波が荒く、取り付く島がなくて困っていると、父の友人が偶然見つけてくれて助かりました。 「何しとんのじゃ」と笑っていた父は、数分後に外海に落ち、二人で焚き火にあたって帰りましたが、それでも楽しかった。 好きだったのは、夜の防波堤から電気浮きを飛ばす夜釣り。 波止場の海は有機物のスープみたいで、波打ち際には無数の夜光虫が銀河の星屑のように光っていました。 潮の香り、船の油の臭い、防波堤で干からびたヒトデの臭い、もっぱら臭いんだけれども、それがなんとも心地よく、盆地育ちの子供心にすら太古の記憶を思い出させるような力がありましたね、海は。

 海が嫌いになったのは小学校5年生のとき。 臨海合宿で1000mの遠泳に参加させられることになったんです。 そもそもプールで1000mも泳げないし、水を飲んで死ぬほどむせ返った経験だって1度や2度じゃない。 それが、足の立たないところを泳ぐというだけで、とんでもない恐怖を覚えてしまったのです。 成り行き上、臨海合宿には参加したものの、仮病を使って殆ど泳ぎませんでした。 そんなことが6年生にもう一度あり、またも仮病で逃げながら、早く中学生になってこの恐怖から逃れたいと考えたものです。

 ようよう中学に入って我が世の春を謳歌していましたが、どうやら2年生の夏には臨海合宿があると知り、再び憂鬱な気分に。 兼ねてから聞かされていた嫌な転校話が、むしろ早く実現しないかと祈っていたところ、晴れて2年生の2学期から横浜ということに決定しました。 臨海合宿は夏休み中に実施されます。 「渡りに船とはこのことだ。当然セーフでしょう‥」と思っていたところ、先生から「臨海合宿を修了しないと1学期を修了したことにならない。」と言われ、頭の中でピアノにゲンコを落としたような「グァ〜ン!」という音が鳴り響いたのを覚えています。

 夏休みに入り、なんとかならんもんかと思いながらも水泳の強化練習に通いつめ、毎日1000mを泳ぎました。 とは言え、さして体力もなかった僕は、ターンの度にプールの壁にしがみつき、呼吸を整えての再発進。 中学の遠泳は500m、1000m、2700mの3クラスだったので、足のつかないところならせいぜい500mがリミットと考え、演技力を駆使して泳ぎ下手を装いました。 そして最終日にクラス分けの発表。 ところが、何を間違ったか、2700mクラスを告げられてしまいます。 再びピアノが「グァ〜ン!」。 何故か1000mクラスに入った僕より明らかに運動神経の良い女子から「橋本君すごいやん!」と誉められたところで、僕は顔色を失ったまま立ちすくんでいました。 早速先生のところへ行って、「無理です。死にます。」と断りを入れましたが、「大丈夫、海は浮くさかいな。」と相手にしてもらえず、「終わった‥」と思いました。

 臨海合宿でおおはしゃぎしている友人達を尻目に、僕は一人固まっていました。 普段は学年きってのコメディアンでブイブイ言わせていたので、「どっか悪いんか?」とみんな心配してくれました。 例の運動神経の女子が、わざわざ僕に話し掛けてくれました。
「橋本君、尊敬するわぁ。」
「いやぁ、俺、もう帰って来ぇへんで。」
「また、そんなこと言うて。それより、もう転校してしまうんやね、寂しなるわ。」
当時充分に色気づいていた僕は、そんな言葉をかけられたら一気に誤解して舞い上がるはずでしたが、きっと遠くを見ながらボーッとしていたことでしょう。 それが彼女には転校のことに思いを馳せてると映ったかもしれませんが、実際はあくる日の遠泳のことを考えてビビリ上がっていたのでした。 そのとき僕は、一大決心をしたのです。
「よぉし、死んだろやないけ‥」

 僕は、本当にそう思ったんです。 転校そのものは元々嫌だったんですね。 幼馴染全員と別れて見ず知らずの土地に行くというのは、過保護に育てられてきた僕には大変な苦痛だった。 目立ちたがり屋で、やっとコメディアンとしての地位を獲得した自分が、なんだか消えてなくなるような、友達全員から忘れ葬られてしまうような不安を抱いていました。 もし遠泳で不覚にも溺れ死んだら、僕は彼らの脳裏に深く刻み込まれるだろうと考えたのです。 青少年はアホですね。 みなさん、注意して見守ってあげましょう。

 さて、溺死覚悟の遠泳は、目を三角にしての参加。 波の静かな若狭湾とはいえ、海は海。 いざ沖に出てみると、水温がガラリと低くなって震え上がりました。 こんなところで呑気にクロールしている奴の気が知れない。 僕は当然平泳ぎ、いや正にカエル泳ぎというべき塩梅で、顔を決して水につけず、心を落ち着かせながら大きく一掻き、また一掻き。 「ゆっくり泳ぐから心配すんな。」という先生の口約通り、ペースは遅め、いや遅すぎるぐらいです。 これじゃあ、いつまで泳いでいなければならないか分かりません。 いったいどの辺まで来たのだろうと、右側300mほどに広がる砂浜に目をやると、なんだかすごい勢いで進んでいます。 どうやら、潮流を考えてコースセッティングされているらしい。 これなら、ただ浮いているだけで、いつかは到着するはずです。

 今遠泳をしているのだということを極力忘れるように心がけ、「デンデン♪」と鳴る太鼓の音に自分の安否を確認しながら黙々と泳いでいると、1時間も泳いでいたでしょうか、先導する船が方向を変え始めました。 遠くに見えていた砂浜が、少しずつではあるけれど、近づいてきます。 このとき初めて、「これは完泳できるぞ!」という気持ちになりました。 「お〜い、途中で立つな〜、腹が砂に擦るまで泳げ〜!」と船の上から指示が飛びます。 慌てて立とうとしたところに深みがあると溺れるということのようです。 ここで死んでなるものか、たとえ横の奴が立ち上がって歩き出そうとも、僕は腹が砂にガガガと擦るまで泳ぎ詰めました。 「おぅ、着いたぞ!」と声を掛け、背中をポンと叩いて行く奴もいます。 「やった、完泳だ!」と思い、立ち上がろうとすると、何だか体に力が入りません。 ただ浮いていただけのようでいて、実は極度の緊張から全身にずっと力が入っていたのでしょう、ちょうど腰が抜けたような感じで、打ち上げられた海藻状態。 打ち寄せる小波にからかわれながら、腹這いになって漂っておりました。 「おぅ、なんや、大丈夫か?」と友達の声。
「ああ、いや、ちょっと余韻に浸ってるんや。」
「なんや、またちょけとった(ふざけていた)んかいな。おしるこ(ぜんざい)あるで。」
しばらくしてようよう立ち上がった僕は、よたよたと元気のないゾンビのように「おしるこ」へと向かったのです。


海水浴

 これでなんとか海のトラウマを克服した僕は、晴れて横浜に移りました。 奈良に居てオヤジが単身赴任だった頃は伊勢志摩の鳥羽に遊びに行ったもんですが、今度は油壷や城ヶ島に連れて行ってもらいました。 如何せん、僕には「海」としか映らず、果たしてどこに「鬼の洗濯板」があったかも覚えていません。 むしろ新鮮だったのは、港町としての横浜。 根岸のコンビナートを臨むマンションに住み、「スイカ男」の案内で、元町の運河に船を浮かべ何十匹と犬を飼っている水上生活者を観察したり、本牧の怪しげな店に遊びに行ったり、夜中に自転車でD突堤へ忍び込んで悪戯をしてみたり、今までとは違う海の印象を持ちました。

 繁く海水浴に出かけたのは大学時代。 伊豆半島や房総半島によく行きました。 未明に出発して朝到着し、一眠りしてから泳ぐのです。 海水浴場には、テニスの審判がすわるような梯子付きの椅子が何本か立てられ、その上に監視員のお兄さんたちが座って、事故のないよう見張っています。 流されている人を発見すると、サーフボードに腹這いになって沖に待機している救命員が救助に向かいます。 浜にはラウドスピーカーが備えられていて、普段はBGMを流しています。 その周波数帯域の狭さが、いかにもビーチという雰囲気をかもし出すのです。 時々、呼び出しのアナウンスも入ります。
「××大学の○○さん。お友達がお待ちです。海岸警備本部のところまでおいでください。」
そして、再びBGMが流れ、我々はビーチボールで遊んだり、再び海へ浸かりに行ったりします。
「××大学の○○さん。先ほどからお友達がお待ちです。海岸警備本部のところまでおいでください。」
さっきから、ずっと同じアナウンス。 我々は、カキ氷を食べたり、甲羅干をしたりします。 やがて救急車の音が近づき、去って行き、ラウドスピーカーからはBGMが流れていました。 どうやら、「××大学の○○さん」は亡くなり、親御さんも駆けつけられたらしいという噂。 なんと、この平和な海岸で、人知れず一人の若者の人生が終了したとは。 かといって我々に何ができるものでもなく、空は青く、海は賑やかで、やっぱりビーチボールで遊んだり、海へ浸かりに行ったり、何事もなかったように過ごしてから帰途につくのでした。 人が死ぬということについて、全くといって良いほど実感を持たない年代でした。

 伊豆の網代だか白浜だかに行ったとき、台風の影響でもあったか、とんでもなく大きな波でした。 当時未だ流行っていなかったボディサーフィンが、ビート板なしで楽しめる状態です。 同行した女の子に「写真を撮ってやるよ」と言って海を背にどんどん後ずさりさせ、ピースサインを出してしょっこり笑っている背後で巨大な波が牙をむき出している決定的瞬間なんかを撮影したりしました。 その後の惨劇は言うまでもありません。 実際、洒落にならないくらいの波で、下手に飲まれると海底に頭を打ち付けて首が折れてしまうのではないかと思うくらい巻かれてしまいます。 飲まれてしまったときは、慌てず騒がず体を丸くして、風に運ばれる砂漠の植物のように転がっているのが正解です。 その間、でんぐり返りながら軽く2〜30メートルは運ばれてしまいます。 「あ、これは使える!」と、僕は悪知恵を考えつきました。

 ちょっと離れた波打ち際に二人連れのビキニの娘さんたちがいて、下半身だけ水に浸かってキャッキャと遊んでいます。 その沖で波に飲まれれば、転がっていって彼女達に体当たりしたとて、不可抗力を装えると考えたわけです。 若干良心がとがめながらも、内心「ヒヒヒ」とほくそ笑みながら、早速それを実行してみることにしました。 ガバガバガバガバッ!波の勢いは恐ろしいほどで、体を丸くした僕は高速で回転しながら彼女達めがけて転がって行きました。 案の定、水中のビキニのお尻が、すごい速さで迫ってきました。 このままでは体当たりする。 しかし、なんともこのスケベったらしい自分に嫌悪を覚え、寸でのところで転がる方向を変え、彼女達より10メートルほど先まで行って止まりました。 「ああ、俺はなんと情けないことをしようとしたのか」と、水中で体を丸めたまま省みておりましたが、ふと気が付くと荒波のせいで海水パンツが膝までずり落ちておりました。 「嗚呼、なんちゅう格好、なんちゅう最低の男!」

 九十九里浜の白子海岸も綺麗でした。 大抵は、交通渋滞を避けるために昼には引き上げるのですが、その日は夕方まで遊んでいました。 遠浅で、潮が引くと深さ10センチほどの広い波打ち際ができ、それに夕陽が金色に反射して、夢のような世界になりました。 地元の連中でしょうか、そこへ丸いビート板のようなものをペタンと放り、勢いをつけて飛び乗っていました。 大抵の奴はひっくり返るのですが、巧い奴はそのままツツーと滑走していきます。 本当に、夢の中のように不思議な世界でした。 そんな経験に味をしめ、別の年にも大学の後輩達を連れてそこへ出かけたました。 ところが、砂浜というものは年々変化するものらしく、さほど遠浅でもなくなっていたし、いきなり深くなっているところがあったり、波が小さかったりで、勝手が違っていました。 どうやらブイの方に再び背の立つ浅瀬があるらしく、勇敢な後輩達が泳いでいってはそこに立って手を振っています。 まるで蜃気楼のように、沖で上半身だけを出して並んでいる連中の姿が面白くも異様で、自分も行ってみるかと泳ぎ始めました。

 途中までは順調だったものの、沖の浅瀬のすぐ近くまで来て一向に進まなくなりました。 進まないどころか、少しずつ左に流されていく。 思ったより潮の流れが速く、ちょうど自分のカエル泳ぎの馬力と釣り合ってしまったのです。 蜃気楼組の友人達が「もうすぐだよ、ここだよ〜!ここまでくれば足が届くよ〜!」と声を掛けてくれているのですが、彼らがすぐ目の前に見えるのに、そこへ行けない。 次第に焦りが募ってきます。 一念発起してクロールで勝負をかけたら到達できるのかもしれません。 でも、もし到達できなかったら?

 心の中で「戻ろう」という声が(誰だ?)。 このあたりが情けない自分の性分であります。 しかし、方向転換を図っているうちに、あっという間に流され始めました。 「やばい!」とさっきの声の主(だから誰なんだ)。 みるみる流されて、下手をすると砂浜のはずれの防波堤を通り越してしまいそうです。 すると、少し離れたところに浮き輪発見。 同行していたイシキンという女子が、漂っておったのです。 どういうわけか、このときばかりは必死になって抜き手(クロール&カエル足)で泳ぎ、その浮き輪に掴まることができました。 しかし、その焦りを悟られぬよう、平静を装って忠告しました。
「この辺りは潮の流れが速いから危ないよ。」
「そうなんですよぉ、なんかすっごく速いなぁと思ってたんですぅ。」
「よしよし、それじゃあ一緒に押してってあげよう。」
九死に一生を得た僕は、彼女を救助しているのだという体裁で、浮き輪にすがりつきながらバタ足を始めました。 けれど、浮き輪があると余計に流されてしまいます。 みるみる内に防波堤付近まで来てしまいました。 それでも、当時みんなのアイドルだった女子と二人きりというのは満更でもなく、それなりに危機感はあるものの、多少ルンルン気分でバタバタやっておりました。 ルンルン♪バタバタ♪ルンルン♪バタバタ♪‥

 そこへガバッ!と突然割り込んで浮き輪にしがみついて来る輩がおりました。 全く見知らぬオッサンです。
「いやぁ、流れが速いですねぇ!」
「そ、そうですねぇ‥」
「ここは危険ですよ。一緒に戻りましょう。」
もっともらしいことを言っているオッサンは、笑顔ではありましたが完全に目が座っていました。 それは、九死に一生を得た男が体裁を整えるときに共通の表情でした。 最終的にはもう一人二人加わり、イシキン嬢を真中に四人ぐらいが鈴なりになって浜まで戻ってきたと思います。 歩いてみると、基の地点から100m近く流されていたようでした。 後で聞くと、例の蜃気楼組の中にも流された奴がいたようです。 たまたま浮き輪で流されていく小学生を発見し、「お兄さんが助けてあげよう」としがみついたのだとか。
「ガキンチョが泣きそうな顔して必死にバタ足してくれたんで、なんかイヌゾリみたいでラクチンでしたよ。」
「オマエが助けられたんじゃないか。」
「ま、そういう見方もありますね。」


漁師の波止場

 そんな学生時代の海の記憶は、いわゆる社会人となってピタリと封印されました。 会社勤めをするようになってからは、放蕩する時間など全くなくなりました。 仕事で米国の西海岸へ行く機会があり、なんという会社の飛行機か忘れましたが、僕は窮屈な窓側を予約しました。 成田を夜飛び立つとき、滑走路のライトがとても綺麗なのです。 しかし、海上まで出てしまうと、窓は只の黒い壁です。 当時はまだタバコの吸える時代でしたが、喫煙席は最後部の一角で、機体後部に直接エンジンのついた旧式のジェット機でしたから五月蝿いの何の。 グアオーーー!という音を14時間聞いていなければならないのです。 それでも暇で寝てしまいます。 寝ても騒音でふと目がさめます。 そうこうするうち、飛行機が夜と朝の境界を越え始めました。 やがて空がエメラルドに、そして海が光り始めます。 太陽が昇ってしまうと、これはもう快晴の元旦の朝に揚げられた凧のような心境で、ただひたすら眩しく、ブラインドを引いて寝るしかありません。 寝ても騒音でふと目がさめます。 そして、西海岸の波打ち際が見えてくるのです。 やぁ、海は飽きるほど広かった。

 サンホセの食事に飽きた我々一行は、今夜はサンフランシスコに繰り出そうということになりました。 車で1時間余り、ナチュラル・フェノメノンを感じ始めた連中が「未だ着かないですか」と催促。 海に掛かったばかでかいベイブリッジを渡ると、高層ビルが見えてきました。 もうすぐだ。 ところが、道をどう間違えたか、金門橋だかなんだかを渡って外へ出る。 「どっか物陰でもあったらやっちゃいましょう」とナチュラル・フェノメノン軍団。 橋を渡りきると、物陰だらけ、しかしながらかなりヤバイ感じ。 物陰に隠れて用を足すどころか、物陰に隠れている輩の餌食になりそうな雰囲気です。 車は泣く泣くUターンして再び橋に。 サンフランシスコから出るときはタダだったのに、入るときは1$。 どうしてそういう仕組みになっているかは分かりませんが、それでも1$。 どこかの国の詐欺のような道路事情とは大違いです。

 着いたところは、フィッシャーマンズ・ウォーフ、「漁師の波止場」ということになりましょうか。 ゴールデンラッシュでやってきたスペイン系の移民たちが、既にこの地で金の採れないことを知り、豊富な海の幸を求めるようになってできた街らしい。 潮の香りが漂い、美味しそうな屋台の灯りが連なる、何処となく既視感を覚えるような街並みは、遠い異国とは思えぬ、何ともなつかしいような情緒に溢れていました。 こういう海っぺりの雰囲気、空気、情緒というものには、もしかしたら万国共通の何かがあるのかもしれません。

 強く異国を思い知らされたのはレストラン。 一応取引先の方々に同行していたので、そうそう下世話なところで間に合わすわけには行きません。 それなりに上品そうで安全そうなレストランを選んで入りました。 日頃の食事の量の多さに閉口していた我々は、殆どの人間が「海鮮スパゲティ」を注文。 嘘か誠か、西欧人はスパゲティをスープ代わりにするという噂を聞いていたので、安全牌というわけです。 誰かが「フィレステーキ」を頼んだ、はい脱落。 最後にお一方が「せっかくここまで来たんですから」と、「蟹と海老のディナー」を注文されました。

 「海鮮スパゲティ」は、オードブル皿のようなところにてんこ盛りになって運ばれてきました。 体長が優に10センチはあろうという巨大ホタルイカのような輩が、数えはしませんでしたが恐らく20匹以上麺に絡まっています。 美味いと感じたのは最初の十口くらい。 食えども食えどもスパゲティは沸いて出て、みるみる満腹に。 どうやら猟師町の料理は、大食漢な米国一般の料理の中でも特に豪快なようです。 「フィレステーキ」は言うに及ばず。 最後に出てきたのが「蟹と海老のディナー」。 予めエプロンと解体工具が支給され、当の料理は正にブリキのバケツのようなものに入っての登場です。 バケツの上には、大きな蟹がどっかと乗っかっている。 覗くと、その蟹は数枚重ねに盛られていました。 注文された方は、額に汗をにじませながらそれを解体して頬張り、最後の一匹に手をつける前に音を上げ始めました。
「もう後一匹です‥」
「ちょっと待ってください、それ確か『蟹と海老のディナー』でしたよね。海老は?」
「まさか‥」
最後の蟹を持ち上げてみると、その下に、そうですね、蕎麦屋なんかに「大車海老の天ぷらそば」とか言って出てくるでっかい海老天がありますよね、丼からはみ出たりしている、とてもシュリンプとは言い難いような輩。 あれがバケツの底で群れをなして上を向いていたのです。
「あぁ!やっぱり!」

 その方が偉いのは、それを全部たいらげたということで、しかし喉まで海老蟹が詰まっているようでした。 銀髪で品のいいウェイターが「デザートをお持ちしましょう」と話し掛けてきたので、「ノーサンキュー」。 この上何か腹に入れるなど、冗談ではない。 食事の後にデザートを楽しまないなんて信じられないという表情のウェイターを気遣って、更に丁重な断りを入れました。
「私達はこの夕食をとてもエンジョイしました。しかしビジネスがあるので、もう発たなくてはなりません。」
「それではコーヒーだけでも。」
「残念なことに時間がありません。我々日本のビジネスマンはクレージーなのです。」
実際クレージーなのは米国人の大食漢の方です。 我々は、もはや液体ですら体内に収納することが不可能でした。 そして、怪訝そうに見送るウェイターにチップを渡すと、逃げるように店を出たのです。


笹川流れ

 海にまつわる話は、思い出してみれば枚挙に暇がありませんね。 普段は忘れているのだけれど、いつ見ても初めて見たように思え、初めて見た海には既視感を覚え、何か特別な場所のような気がします。 最後に、最近インターネットで親しくなった、るすらんさんのメールを紹介しておきます。

瓢湖=鴨の湖。白鳥は田んぼにいる。
「かぉかぉかぉかぉ」って気持ちよさそうに空を飛んでいる。

会社を休んで遠い海を見に行く。

海を見ているといつも思う。「帰りたい」
きっと昔は魚だったのだろう。

今日は荒海、日本海。波が激しく打ち寄せる。
海に着いたら眠くなってしまう。
目が覚めたらもう真っ暗。

伊勢丹でお買い物。くじ引きで4等。まぁそんなもん。

満月の夜。だけど、どしゃ降り。

失ったものは取り戻せるのか。

諦めたいけど諦めきれない。

そのうちなんとかなるだろう。
そのうちなんとかなるのだろうか。


--- 15.Nov.2000 Naoki

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