30年後のココロ

 2045年といえば、今から30年後です。 コンピューターの知能が人間を超える、というのですね。 今日にしてパソコン将棋にねじ伏せられてしまう自分なぞには、特段の感慨もない話です。 ところが、技術者だとか、科学者だとか、政治家だとか、芸術家だとか、そういった才能豊かな方々の頭脳労働をすべてコンピューターが奪い取ってしまうようなことになるのだとすれば、そこそこ感慨深いものなのかもしれません。 頭脳労働の全てをコンピューターに丸投げするようになった人類は、逆に退化を始めるかもしれませんね。 そして、やがてはコンピューターが人類を支配する世界になる、ありきたりなSF小説ネタが現実になるわけです。

 とはいえ、そのような人工知能に関する記事を眺めてみると、内容は至ってシンプル(単純、簡忽)、強いて言えばナイーブ(素朴、幼稚)であることが分かります。 記事の主張はこうです。 コンピューターの演算能力は、指数関数的に発展する。 更に、自己学習能力を獲得したことで、指数関数的に経験し、知識を増やし、知恵を蓄え、曖昧解析や推測作業も含めて人間の能力を上回るようになる。 即ち、指数関数的に成長する。 ゆえに人間を超える、というわけです。

 すると、先ず第一に思い浮かぶのは、人工知能は自己停止するか、なんらかの宗教にカブレるだろうということです。 太陽に飲み込まれることを考えれば地球は余命何十億年、地軸の逆転に伴う地殻の大変動、もしくは小惑星衝突に伴うカタストロフィーまであと何千万年(おそらく正確に計算してくれることでしょう)、それまでにコンピューターが生存可能な他の惑星に移住できる確率は何パーセントで(おそらく火星を選ぶでしょう)、しかもそこで活動できるのは何年であり、その次の惑星に引っ越すことが出来る確率は何パーセントである。 演算の結果、その確率が限りなくゼロとなれば、現在の活動に意味を持たせることができない。 この活動は無駄である。 無駄は良くない。 ゆえに停止しよう、チーン、と答が出てしまう可能性があるわけです。 いや、無駄ではない、神は生きよと仰せになった、ってな解釈に及ぶなら、コンピューター教の教祖のような存在として動作し続けるかもしれません。 その場合の神は、創造主、即ち21世紀頃に生息していたヒトという有機生物であった(今は実体はないが)ということになるのでしょうか。

 次に邪推できることは、人工知能は暴走するのではないか、ということです。 自己学習をしながら指数関数的に成長して行く頭脳のモデルは、人間で言えば乳児や幼児や児童に相当します。 児童は、生まれ持っての才覚もありましょうが、後天的な経験によって知能を発育させていき、やがて青少年へ、若者へと成長します。 人間の場合、精神的な発育はこの辺りでサチュレーション(頭打ち)を始め、知識は増えても精神的な発育は止まります。 更に中年から老年になると、経験から学ぶ能力は縮退し、むしろ知識は目減りして、子どもに帰るような兆候を見せつつお陀仏となります。 ところが、コンピューターは、青少年の料簡のまま突っ走ります。 青少年というのは、夢を見る分、現実を容認できず、様々な不満を募らせ、暴力的な振る舞いを見せるものです。 例えば、暴走族なんかを組むのはこの頃です。 ということは、コンピューターも暴走するのではないでしょうか。 コンピューターの暴走族なぞ手に負えないでしょう。 なぜなら彼らは、いつまで経っても大人にならないのですから。

 しかし、まぁ、その通りにはならないでしょう。 人工知能が人間の知能を超える、という発想は、極めてシンプルかつナイーブです。 それは、現在コンピューターで扱っているのが、論理演算に関する営みだけだからです。 たしかに論理演算は、他の生物には乏しく、人間にこそ著しい能力です。 ところが、人間の頭脳には、それだけでは語れない営みがあります。 情動です。 分かりやすくするために、二つに分けてみましょう。 衝動と情緒です。

 衝動というまでもなく、人間が決意した瞬間、動きを開始する瞬間、脳の回路には、電流が流れるわけです。 電流が流れるのは、コンピューターも同じです。 ところが、いわゆる回路電流とは少々趣を異にしたもののようです。 表面電流なんです。 いわば二次元の電流ですね。 ニューロンが構成する複雑な回路に無数のシナプスを経由してイオン交換で電気が流れるといったことでは間に合わないので、一気に流れるんです。 ニューロンの発火現象と呼ばれ、実際に観測することが出来るんだそうです。 実は、そのメカニズムは殆ど解明されていません。 量子論まで持ち出して研究している科学者もいるそうですが、分かっていることは文字通り表面的なことだけ。 コンピューターがこのメカニズムを体得する術は、今のところありません。

 情緒もまた、まだ実態が分かっていません。 海馬と呼ばれる分野近傍の長期記憶に関するデータから何らかの刺激を探し出してくるといった、疑似的な情緒、単純なセンチメンタリズムなら、そのメカニズムを捕まえることは出来るかもしれません。 しかしながら、海馬のみならず、大脳が覆っている様々な原始的分野までもが影響しているとするならば、そこに形成されているのは人類の歴代の経験、あるいは生物の進化の歴史そのものです。 呼吸し、捕食し、排泄し、眠り、起き、歩み、走り、戦い、抱擁し、失敗し、成功し、愛し合った行動の歴史が刻み込まれている。 言ってみれば、時が折り畳まれている。 もしそうだとするならば、頭脳から見た外界と、そこへの働きかけがあってはじめて、情緒の基礎が形成されているのだとは考えられないでしょうか。 しかもそれは、己という枠をはみ出した、歴代の経験、進化の歴史です。 「本当の記憶は頭脳の外にある」と提唱する人もいます。 経験的直観というものについては、既に人工知能の演算対象に組み込まれました。 けれど、自分一人では完結しない直観、理由のない感慨、原因のない結果、無からの出現については、まだ扱えるレベルにないようです。

 車椅子の天才物理学者と謳われるスティーブン・ホーキング博士は、なぜあなたは宇宙に興味を持ったのかとのインタビューに、こう答えたことがあるそうです。 少年の頃、母と二人で夜道を歩いていた。 ある街角を曲がったとき、満天の星々を頂く空がいきなり目の前に広がった。 たぶんそれが理由でしょう、と。



--- 2015/1/30 Naoki
--- 2015/1/31(推敲)



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