RETRO

 3月7日、荻窪"ROOSTER NORTH SIDE"において、大学時代の音楽サークルOBによるジョイント・ライブが行われました。 サークル名は"WFS"。 "Waseda Folksong Society"だと紹介されていましたが、自分の聞き及ぶところでは"Waseda Folk Song"の略だとか、ま、どっちでもいいケド。 とはいえ、フォーク、ロック、フュージョン、凄腕からドレミ全部言える?みたいな輩まで、何でもありのサークルでした。 その割には多くのミュージシャンや音楽業界関係者を輩出していますから、学生時代というのは案外そういった環境が幸いするのかもしれません。 ただし、近年は、ベースとなる部室も、大講堂での演奏の場も失っていると聞き、心配しています。 今はどんな活動を行っているのでしょうね。 この日は、1977年入学の佐久間氏中心に、その近辺のOBが40名以上集い、盛りだくさんのライブでした。 出演者は、以下のパンフの通り;

 どのようなライブであったかは筆舌に尽くしがたく、気持ちよく音楽を楽しんだり、腹の底から笑ったり、ジーンと痺れたりする演奏が次から次へと展開されました。 更に、同輩のユキ姐さんの追悼を兼ねるということもあり、感慨ひとしおでした。 明るく、頑張り屋で、優しい姐さんでしたから、悔しい気持ちでいっぱいです。 このところ、追悼ライブが増えてきました。 そういうお年頃ということでしょう。

 懐かしい面々にお会いできたことも幸甚でしたが、現役時代ほとんどお話をさせて頂いたことのない方々とも交流できたことは、またとない機会でした。 WFSでは、他の女子大の音楽サークルに「コーチ」を派遣するというシステムがありました。 ご存じ、イルカさんが女子美術大の学生だった時代からあったそうです。 自分は、東洋女子短大に派遣されました。 女子大のサークルと聞き桃源郷を夢見て踊るように馳せ参じたのですが、現実は甘くなく、大変ストイックな校風に息が詰まって途中リタイヤした経緯があります。 そのときの部長さんや音楽担当の方々と再会し、身の縮む思いでした。 他にも様々な関係の方々がお見えで、著名なフェリス大の先生とお話をする機会に恵まれ、自著を頂いてサインを強請ったりしました。

 自分の演奏としては、憧れの売れっ子ミュージシャン江藤直子さんとデュオができたということが先ず嬉しかったです。 更に、サークル時代のバンド"RETRO"のメンバー、キーボードの相沢公夫、ベーシストの須貝幸生と何十年ぶりにセッションできたことが楽しかった。 両名ともプロミュージシャンとして活動を続け、現在もその方面や大学の音楽講師として活躍しています。 "RETRO"は、大学1年生のとき、この両名、ゴスペルの歌姫、パーカッションのスティーブ衛藤、それにドラム(すみません、お名前を失念しました)と自分の6人で始めました。 自分はロックやニューウェーブ志向でしたが、RETRO自体はルーファスやバックスバーニーのようなソウル系のコピーが主で、そこに無理矢理ジェフ・ベックを押し込んだり、妙なオリジナルを差し挟んだりしていました。 2年生になってから、高校のとき一緒にバンドを組んでいたギターの金沢信夫が加わり、ドラムは現在大手音楽教室の講師である服部純二、通称「オイチャン」に交代しました。 このオイチャンと知り合った経緯については、中学生時代にまで遡ることができます。

 自分が横浜に移ってきたのは、中学2年生の夏休み明けでした。 このあたりのことは拙作エッセイの中で何度か振り返っていますので、未だ触れかねていたであろう内容に絞って綴ろうと思います。 当時の横浜は、港湾労働者(多くは出稼ぎの方々)が多く、米国海軍の居留地が広がり、現在とはかなり趣の異なる風景でした。 カルチャーショックだったのは中学の風紀の違いで、表番長、裏番長といった輩や、その一味たちが闊歩していたところです。 暴走族活動も盛んで、中でも「ピエロ」という一団は恐れられていました。 本隊かどうかは知りませんが、夜中に爆音を立てながら片側3車線の産業道路を占拠する大軍団が練りまわしていましたし、"Hairpin Circus PIERO"といった落書きもよく見られました。 他の暴走族と数百人規模の大乱闘をやらかして多くの負傷者や逮捕者を発生した現場らしき道路には、路面に生々しい傷跡が残っていました。 平和で箱庭のような古都奈良で育った自分としては、えらいところに来てしまったなという印象でした。

 とはいえ、幸にも表番長一派に庇護された自分は、生徒会長にまで抜擢され、比較的順風満帆な中学生時代を送っていました。 ただし、裏番長のことはあまり知りませんでした。 一度、病院で出くわしたことがありますが、彼は頭に包帯を巻いていました。
「おぉ、ナンバーツー(自分の渾名、表番長の次という意味)じゃねぇか」
「あぁ、どうしたの、その頭」
「いやぁ、昨日ビール瓶で殴り合ってさ」
これが中学の時なんですからねぇ、隔世の感があります。

 その裏番長のクラスにあって、いわゆるイジメにあっていたのが、雨宮という奴でした。 顔が似ているということで「アメーバ」などと渾名されていました。 宿題をやらされたり、パシリ(遣いっ走り)をやらされたり、大変らしいという噂でした。 でも、その雨宮君とは、すぐに仲良くなり、「アメーバ」とは呼ばず「アメサン」と呼んでいました。 というのも、彼はとてもギターが上手かったのです。 自分がクラシックギターに鉄弦を張っていたころ、"TEISCO"だかなんだか、彼はもうエレキギターを持っていて、学校で見せてもらったりもしました。 こんな薄っぺらいギターからどうやって音が出るのだろうと興味津々でした。 アメサンからは、クリームやジミヘンといった、今では伝説になっているミュージシャンたちの存在も教えてもらいました。

 そういった友人たちと、卒業後は別々になります。 アメサンは、少し離れたところの高校に進学しました。 新天地に移り、もうナメられないようにと一念発起したのでしょう、彼はコワモテで通したようです。 もともと体躯も大きいし、髪型や学生服さえアレンジすれば、相当迫力のある風貌にはなれたのです。 その甲斐あって、1年生の番長まで張るに至りました。 如何せん、早速上級生から呼び出されました。 3年生、即ち〇〇高校全体を仕切っている番長と、タイマンを張る(1対1の決闘をする)ことになったのです。 死に物狂いで立ち向かったところ、なんだかんだ力はアメサンの方が上。 勢い、数人掛かりの乱闘に。 後で聞きましたが、相当熾烈な戦いだったようです。 でも、結局勝ってしまったのですね、アメサンが。 結果、「〇〇高に雨宮あり」と、うちの高校にまで聞こえてくるようになりました。

 うちの高校は、どちらかというと「進学校」で、帰り道に中学生(なんと自分の出身校)にカツアゲ(たかられること)されることがあるので「注意して帰りましょう」などという情けない構内放送が流れる始末。 それでもリーゼントを決めた事実上の番長はいて、横浜独特の風情にはなっていました。 ある日、その番長が、頼みがあると相談を持ちかけてきた。 「〇〇高の雨宮さん」に呼び出しを食らったと言うのです。
「オマエ、同じ中学だったんだろう? 一緒に来て口利いてくれや」。
アメサンに違いありません。 「ああ、いいけど、、、」と請け合いました。

 真っ昼間、商店街の入り口にあるスナックに到着しました。 遮光ガラスの扉を開け、「失礼します」と入ってみると、いました、でっかいソファーが小さく見えるほどアメサンが広がって座ってた。 取り巻きも数人います。 うちの番長は、失神寸前みたいに緊張しています。 自分は、笑いを堪えるのに必死でした。 ここでアメサンの面子を潰すわけにはいきません。 アメサンも、「えええ?!」って感じで目を見張りましたが、知らん振りをしていました。 暗黙の了解というやつです。 果たして、話は穏便に収まりました。 番長からは、いたく感謝されました。

 そんなこんなでアメサンとの交流が復活しました。 いつだったか、この拙作エッセイでもご紹介した米軍居留地での初ライブも、彼のお陰で経験できたことです。 彼がバンドをやるというので観に行ったこともあります。 今はもうありませんが、平和球場(現、横浜スタジアム)の脇には、木々に覆われた公園があり、野外ステージが設置されていました。 そこでは、「からすの羽根コンサート」なるイベントが開催されていました。 当初は無料だったようですが、自分が行く頃には入場料が99円でした。 60年代から70年頃にかけて、日比谷の野音なんかもそうですが、ロックコンサートというものは無料だったのだそうです。 それでは運営ができないので有料にすると、学生運動というのがありましたから、ヘルメットを冠りマスクを付けた輩がゲバ棒(角材やそれに類似する棒状の武器、「ゲバルト棒」の略)を手に、「貴様らはブルジョアの手下かーっ!」と乱入したんだそうです。 これは、「徹子の部屋」でしたか、上述の相沢公夫もバックバンドを努めていた日本ロックの先駆者の一人、今は亡きジョー山中さんがおっしゃってました。 「だから俺たちもギターとか振りかざして闘うわけですよ」とジョーさん。 それでもダメなときはギターアンプを担ぎ上げて投げつける。 「これがホントの『アンプ闘争』です」って。 いや、相沢は作り話だろうというのですが、本当です、本当にテレビでそう聞いたんですから、ジョーさんのネタです。 あ、だいぶ発散しましたが、アメサンのバンドを観たのも、その野音だったように思います。

 兎に角上手かったです。 ギターが上手いのは知っていましたが、我々が考えている学生バンドというのとは一線を画していました。 特にドラムは、学生プレイヤーとしてはそれまで見たことがないほど本格的だった。 それが、オイチャンでした。 きっとそのとき初めて口を利いたんだと思います。 いつかはこういうドラムとやってみたい、そんなことを思ったのを覚えています。

 彼の特徴は、自分の叩くドラムを全て口で奏でられることです。 昨今でいうボイパ(「ボイスパーカッション」の略)のようなものですが、それ自体を聞かせるのではなく、あくまでも彼の心の音なのです。 自分が心に描いた通りの音を出す、それが彼のドラムの真骨頂でした。 思えば、モンタレーやウッドストックの映画でジミヘンを視たとき、あの爆音のようなギターサウンドが彼の手元から出ているようには見えなかった。 全て彼の口から、体全体から出ているように見えました。 B.B.キングとて同じことです。 彼の愛機ルシールは、fホールのないセミアコというよりも、彼の身体の一部のように見えました。 オイチャンのドラムは、既にそのタイプの代物だったのです。 RETROのドラムが多忙で続けられなくなったと聞いたとき、真っ先にオイチャンを紹介するのに迷う理由はありませんでした。

 卒業後、彼は大手音楽教室のドラム講師になりました。 自分は、いろいろあって離ればなれになり、かれこれ30余年、彼と一緒に演奏していません。 あろうことか、最近病魔に襲われてドラムを叩くことが困難になり、現在はリハビリ中、全快までまだ少し時間がかかるとも聞きました。 相沢、須貝と再会し、唯一口が揃ったのは、またオイチャンとやりたいね、ということ。 バンドというものは面白いもので、必ずまたやりたくなるものなのです。


ForestSongの演奏。
最近の歌から高校時代に書いた曲まで。

憧れの江藤直子さんと。
彼女と演ると世界が広がる。

相沢、須貝らとのセッション。
やってる方は無茶苦茶楽しい。

このスリーショットは歴史的。
四半世紀以上経過しているのだから。

--- 2015/3/13 Naoki



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