アマチュアリズム


 「アマチュアリズム」という言葉には、「素人芸」や「道楽」とともに「アマチュア資格」という意味が含まれています。 アマチュア資格というのは、オリンピックのためにあったような言葉で、ご存じの通り昨今では死語となりつつあります。 元来、経済的営利を目的とせず純粋にスポーツを行うことを良しとしてそのような資格が必要とされたようですが、共産圏の「ステートアマ(国家から物質的・経済的援助を受ける選手)」への西側の対抗処置として徐々に撤廃されて行きました。 お陰で我々は、オリンピックで米国バスケットボールの「ドリームチーム」を見ることもできるようになりました。
 確かに、アマチュア資格の衰退の発端はステートアマの活躍にあったと思います。 しかし、その現象が顕著になっていったのは、むしろ冷戦終結後であったように感じます。 それは、「経済」という言葉に対して抱く我々のイメージの変化にも呼応しているような気がします。 かつてから経済の重要性については衆目の一致するところでしたが、銭金の絡む話にはどことなく後ろ暗いものがなくもなかったと思います。 大学で専攻するのも、経済学よりは哲学だとか文学といった方が、なんだか潔い感じがしました。 ですが現代では、経済というものが、平和のバロメータといった意味合いを携えるようになってきました。 つまり、経済は、平和や自然といったものと同列に論じられるべき言葉になっているわけです。
 もっとも僕個人のレベルにおいて、それは千円札や百円玉の問題ですので、平和を論ずるに足りるものではないのですが... 大学を中退した僕は、ギターを弾くとか楽譜を書くといった形でこの「経済」に関与しました。 いってみれば「プロフェッショナル」な「ミュージシャン」であります。 「プロフェッショナル」という言葉には、「玄人の」とか「専門職の」といった意味があります。 早い話が、働いている人はみんな「プロ」であるわけです。 しかし、ギタリストというのは、給与所得の事務技術職よりも、遥かに不安で心許ない職業でありました。 税務署には白色で申告していましたが、職業欄に「音楽家」と記入することは、「遊び人」と記入するに等しい感慨がありました。
 当時僕が抱えていた大きな矛盾は、好きな音楽のために「プロ」を断行しているはずが、好きでもない曲を弾いたり書いたりしないと喰えないということでした。 今でもそうですが、音楽を愛する身として言わせてもらえば、経済的に成り立っている「音楽」の大半は劣悪としかいいようのないものばかりでした。 ミュージシャンを辞めようとしている友人に録音スタジオのオペレータの職を紹介しようかと持ちかけたとき、「辞めるんなら音楽と関係ない職に就きたい」と言われたことがあります。 何故かと訊くと、「僕より下手な奴にペコペコするのはイヤだからね」と言ってました。 なんとなく分かる気もします。 僕は単に、頭がパーになりそうな音楽を聞くだけでも嫌なのに演奏までさせられるのはもう沢山だ...という感じでしたね。 僕は音楽嫌いで人間嫌いな音楽人間でした。
 ある意味で、カタギ即ちアマチュアは、好きなことをやっていればいいわけで気楽なもんです。 しかし、確実に言えることは、音楽に接する機会は少なくなり、自己表現の場は激減し、専門技術は衰えずとも向上しなくなりました。 昔はへっっったくそだった奴も、石の上にも三年で、ミュージシャン生活を重ねながら大いなる表現力を獲得していたりします。 そういうことは、カタギには困難です。 同じカッティング練習をするにも、方や仕方なく週に1回、方や命を賭けて毎日やるんですから。 今でもプロとして第一線で活躍している友人は、「や〜、アマチュアはいいな〜」と言ってました。 「怖いもの知らずだからね。 学生なんかが喋ってるの聞いてても、言いたい放題だからね。 『もう、エリック・クラプトンも終わりだな』とか言っちゃってさぁ、自分の方がエリック・クラプトンより偉いんだからね。 1万人の観客の前に引きずり出して『じゃあみんなが喜ぶようにここでギター弾いて見ろよ』とか言ってやりたくなるよ。」 そう、アマチュアは怖いもの知らずなのよね。
 アルビン・トフラーという経済学者は、ある意味でアマチュアの時代の到来をも予見しています。 例えば、DTM(デスクトップ・ミュージック即ち「机上音楽」の略語で、コンピュータに搭載された音源やプログラムにより楽曲を編集したり再現したりする方法)は、音符の書けない人や、楽器の弾けない人や、オーケストラを雇うことができない人にも音楽の制作や演奏や発表の可能性を与えてくれます。 肢体の不自由な人でも、コンピュータを使って、自分の好きなように「ギター演奏」を行うことができます。 DTMに代表される「音楽の自動化」は、閉塞感のある個々のミュージックシーンに革命をもたらすかも知れません。 しかし、現実はそう単純ではないようです。
 問題は二つあります。 一つは、やはりアマチュア音楽には聞くに耐えないものが多いと言うことです。 経済生活をしている我々にとって、生活の一部としての原始的な音楽をとりもどすことは容易ではありません。 子供達は、「かごめかごめ」を覚える前に人気アニメの主題歌を習得します。 いきおい、アマチュア音楽はプロの音楽の模倣に終始します。 そして、ヘタクソです。 こればっかりは仕方ないですね。 でも、あまりそういうものが横行してしまうと、やがてアマチュア音楽そのものが飽きられてしまうでしょう。 ビデオゲームの旗頭であった米国のアタリ社の例を採れば、不特定多数のサードベンダーのソフトウェアが流通し、その多くがつまらないものであったために、アタリ社の供給するハードウェアそのものが売れなくなったことがあるそうです。 これは業界では「アタリ・ショック」と呼ばれ、当時大ブームを起こしていたゲームセンターの存続の危機となりました。 不特定多数のソフトウェアは、貴重なソフトウェアの苗床となる一方で、陳腐なソフトウェアの温床ともなるわけです。 ライブハウスに行ったとき、何故こんな演奏を聞くためにわざわざ時間を割いて足を運んで金まで払ってしまったのかと後悔することがあります。 知人が演奏している場合は、途中退席の自由さえ束縛されることもあります。 そんなことが続くと、ライブハウス嫌いになってしまうでしょう。 うちのバンドがライブハウス撲滅の旗手とならぬよう期待して止みません。
 もう一つの問題は、自動化された音楽では表現できないものがあるということです。 しかも、その表現できないものは、音楽の非常に重要な部分を担っていたりします。 ライブハウスに音楽を「聞きに」いくのではなく、「見に」いくのは僕だけではないはずです。 レコードを聞くとき、その「音」ではなく、その音を発している「人」を聞くのを楽しみにしているのも僕だけではないはずです。 購買欲をそそるために流れている婦人靴屋のBGMはともかく、音楽とはそういうものではないでしょうか。 自動化された音楽に「その人」を表現することは、生演奏以上に努力を要することであろうと思います。 足りないパートをDTMで補っているアマチュアバンドを見かけることがありますが、これは最も不利な方法です。 ドラムがいないのなら、ベースがいないのなら、その中で彼らがどう表現するのかを客席は期待しています。 抜け目のないプロ達は、多くの人々が機械音に飽きてきたことをいち早く察知して手を打ち始めています。 負けるなアマチュアリズム!
--- 23.Feb.1997 Naoki


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