東京の空


 「東京のどこかに知らない空がある」、これは本間和夫の歌の一節です。 意味深な歌詞で、如何様にも採れますが、僕にはこの一言に凝縮された想いが百の言葉を用いるよりも鮮明に感じられます。 その歌のことはさておいて、以前の東京には、或る意味で今とは違った空がありました。
 関東圏に移り住んできたのは二十五年も昔の事になります。 当時、僕が東京に抱いた印象は、焦(きな)臭さでした。 団塊の世代と呼ばれた人達が二十代の頃ですから、東京は若い活気に溢れていて、今何が起きているのか、これから何が起きるのか、何ともわくわくさせる魅力を持っていたように思います。 昨今の渋谷・原宿とは随分違って、商業的な繁華街というより、文化的に燻っている都会といった印象でした。
 小さな奈良の町から出てきたばかりの中学生だった僕は、友達と、或いは一人で東京に遊びに行くようになりました。 当初よく出向いたのは、東京タワーの近く、当時ソ連大使館のあった狸穴(まみあな)というところの文化放送というラジオ局。 山本コウタロウさん達の番組のスタジオに入って話を聞いたり笑ったりしているだけなのですが、見るもの全て珍しく、それでも充分楽しめました。 そして目的のもう一つは、その番組のディレクターに会うこと。 何という名前の方だったか遂に忘れてしまいましたが、とても優しい方で、何処の馬の骨とも分からぬ子供らを快く迎えてくれて、喫茶店でアイスコーヒーを御馳走してくれたり、尻の青い恋の悩みの相談相手になってくれたりしました。 高校生になって、三年ぶりくらいで訪れたときもちゃんと覚えてくれていたのには感激しました。 体温の通わぬ大都会の、そのまた得体の知れぬ放送業界、地方出の小僧からそういった東京に対する偏見を払拭してくれた方でした。
 同じ頃、最もよく通っていたスポットは、銀座三越向かいのファーストフード店の二階にあった「スリーポイント」というところ。 ウーマンリブの集会所であったこのスペースは、毎週金曜日、コンサート会場として開放されていました。 いわば、ライブハウスの走りの一つです。 当時はウーマンリブ運動が盛んで、幾つかの有力な団体もありました。 スリーポイントがその内のどれに属していたかは知りませんが、なるほど訪れてみると、美しくも化粧の薄い毅然としたお姉さま方が大半を占め、子供心に格好いいなと感じたものです。 出演していたのは、本来の意味でアシッド系の「タージマハール旅行団」、ブルースの「ウィーピング妹尾」や「ローラーコースター」、いわゆる和製ロックの「あんぜんバンド」など様々です。 中でも僕は「あんぜんバンド」がお気に入りで、彼等の二枚のアルバムも購入しました。 それから二十年程たってから、そのバンドの中心的人物であった「長沢ひろ」をどこかの楽器屋で偶然見かけたことがあり、実はあなたのファンだったと告白すると、一寸遠くを見るような目をしながらも顔を綻ばせ、そうかそうかと喜んでくれました。 しかし、はっきり言って彼等のセカンドアルバムは、ファーストアルバムを気に入った大半のファンを落胆させるに充分な電気仕掛けの小手先モノで、僭越ながらああいったポテンシャルを(音楽的にも興行的にも)持続発展させることの難しさを察したものです。
 その後、横浜元町付近に入り浸るようになり、遊びの場が東京に戻ったのは二十歳を過ぎて暫くしてからです。 専ら早稲田界隈を拠点とし、時折渋谷はNHKお膝元の胡散臭い飲み屋で知らない兄さん姉さんに声をかけたり、新宿、原宿、六本木等々、何か無いかとうろつきましたが、以前とは違って何となく東京が狭く感じられ、どことなく色褪せて感じられるようになりました。 慣れによるものか、感性の劣化によるものか、或いはやはり東京の町それ自体から焦臭い活気が失せてしまったのか。 今東京から連想するものは、背広、ディスカウントショップ、雑踏、汚れた歩道、ハシブトガラス、そして何とも陳腐な電飾看板の数々。 狸穴や銀座に見た優しいディレクターや毅然としたお姉さん、あの人達は今何処で何をしているのか。

--- 1.Apr.1998 Naoki


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