僕は、’77年に早稲田大学に入りました。
学生証の番号が、’77年で理工学部の記号が7、電子通信学科の記号も7と、妙に7のゾロ目だったので覚えています。
ラッキー7というやつですね。
そして目出度く7年で中退したのであります。
理工学部には、「ロック・クライミング」というふざけた名前の音楽サークルがあって、何故かブルースとプログレを専門にやってましたね。
部室に入れてもらってギターで遊んでると、電子通信の1年先輩で部長の吾妻光良さんという怪物がやってきて、「面白そうだなぁ」とやおらギターを膝に乗せて弾き始めました。
ものすごいブットイ音でね。
「ハハァ、参りましたぁ〜」とは言わなかったけど、そんな気分だった。
うまいギター弾きは高校の頃から2、3人知ってましたが、音一発で聞かせるギターを目の当たりにしたのは初めてでしたね。
後に、クロコダイルというライブハウスに乱入してきて僕からギターを取り上げて弾いて見せた町田町蔵という奴のプレイもそうでした。
でも入らなかったです「ロックラ」には。
別に吾妻翁に恐れをなしたわけではなく、初めて訪れたとき応対してくれた部員が「もう定員オーバーなんだよね」とか苦言を呈されたんでね。
それに、当時の理工学部キャンパスは荒涼としてたんで、どうせなら本部キャンパスに通いたかったしね。
で、商学部の地下に部室、というか溜まり場のあった「WFS」というのを訪ねたらホイホイ入れてくれました。
WFSは「早稲田フォークソング」の略で、多分キャンパスフォーク華やかかりし頃の遺産なんでしょう。
100名以上の大所帯で、いろんな大学から人が来てました。
当時はそれこそ弾き語りからフォーク、R&B、R&R、ハードロック、プログレ、果てはオビョーキモノまで、個性的なバンドが色々ありました。
それに、吃驚するほど上手な人から「ドレミ全部言える?」と尋ねたくなる程の初心者までいました。
ザリガニーズとかイルカさんとか高齢の方々については知りませんが、プロミュージシャンも輩出しているようです。
先輩で言えば、坊主頭に学ランに半ズボンという出で立ちに関わらず文学部の坂を歩けばオッカケ女子大生の列が出来たというマルチプレーヤーの藤本敦夫さん、
スタジオにライブに第一線で活躍を続けておられるベースの横山雅史さん、
プリズムなどで活躍しておられるドラムの木村マンサクさん、
同輩ではパーカッションのスティーブ衛藤、キーボードの相沢公夫、ドラムで講師の服部純二、
後輩連中ではドラムのレイチ、和太鼓のレナード衛藤、デーモン小暮率いる聖飢魔Ⅱ他、つい最近「デビュー」したやつらもいるとのこと。
僕は知らなかったのだけど、サンプラザ中野やパッパラー河合達も所属していたらしい。
但し、「ここにいてはダメになる」という言葉を残してすぐに辞めてったそうですが...
プロデューサーやディレクターなどいわゆる業界人も綺羅星のようにおられるらしいんですが、雑多にツドっていただけに、音楽以外の方面で活躍しておられる方々も多いようです。
演出家、詩人、人形劇、ボランティア、女社長などなど。
もちろん、月給取りや主婦として、生産活動はたまた生殖活動に従事しておられる方々が大多数でしょう。
僕はむしろ、業界人にならなかったそういう方々にとっての音楽という行為は何であったのか、そちらに興味が湧きます。
入るとすぐに「一日合宿」と銘打った新人歓迎コンパがありまして、千葉の岩井海岸あたりでどんちゃんやります。
今では決してそのようなことはないと思いますが、新人はしかしそこでコテンパンにヤラレるわけです。
先輩連中は新人の女共を侍らせて酒池肉林、新人の男共はアルコール漬けにして葬られるという塩梅です。
僕は、知り合ったばかりの同期の連中が葬られていくのがひどく不快で、思わず先輩にタテついたですよ。
今では決してそのようなことはないと思いますが、顔が2倍に膨れるくらい殴られました。
だからって辞めはしなかったですがね、音楽では負けないぜってな調子で(お〜い、音楽に勝ち負けがあるのか〜)。
そんな険しい新人時代でしたが、歳を重ねるごとに、そこは居心地のいいモラトリアム空間になっていきました。
次から次からいろんな人が集まってきますから、自分はじっとしていても、周りが華やかな時間を与えてくれるわけです。
温水蛙の(水に蛙を入れて徐々に熱くしていくと蛙は無抵抗のまま死んでしまうという)実験のような、大いなる錯覚の中心にいました。
そんな中で、僕には何故多くの部員がある時バッサリとリクルートカットになったり、すんなりと音楽をやめたりすることができるのか不思議でした。
何故そんなに潔くなれるのか。
それも、つい最近まで一心に演奏の練習をしたり口角泡を飛ばし合って音楽論を闘わせていた連中がです。
才能にも環境にも、強いては好機にも恵まれた人物達でさえ、ある日きっぱり音楽活動と決別するのです。
おそらく、もっと強い使命感や目的意識があってのことだったのでしょう。
迷いや抵抗がなかったとは思いません。
きっと様々な事情があったのでしょう。
学生の身分でありながら、生活とか、人生設計に対して冷静な眼目を持っていたのかも知れません。
それにしても、僕には不可解な印象が残っています。
それは理解しがたい他人への違和感とか拒絶感といったものとは逆で、語らない真実への好奇心のようなものです。
僕はむしろ、そういう人達にとっての音楽とは何だったのか、そんなことに興味があります。
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