一人同窓会

 出張で近くに出向いたものだから、 母校の小学校に立ち寄ってみることにしました。 過去一度高校の同窓会に出席したっきり、 中学含めどうもそういう場が苦手だった自分にとって、 また奈良といっても郊外にあり結局は立ち寄ることのなかった自分にとって、 この小学校にはかれこれ三十数年ぶりの訪問ということになります。

 ここは附属小学校であって、元々大学の構内にあったものが、 ちょうど僕が入学する頃に郊外に新校舎として建てられ移転しました。 朧気ながら完成前、親に連れられてだったか何であったか、冬だか春先に訪れたのが最初。 まだ工事中で盛り土などあり、そこに積もった雪が溶け始めていた。 土の色、雪の色、雪解けの雫の透明、空の色、そんな印象があります。

 1学年は2クラスしかなく、 月組・星組という宝塚歌劇団のような呼称で、 僕は月組、最初の担任は松本先生という方でした。 眼鏡を掛けたやや背の高い物腰の柔らかい方だった。 もう他界されたと聞いています。 4年生のときにクラス替えがあり、 相変わらず僕は月組でしたが、 担任の先生は代わりました。 今度は更に年配の、今井先生という方だった。 登校初日、外見からしてストイックな今井先生を前に、クラス一同緊張していた。 雑談はおろか、身じろぎもせずに先生の様子を伺っていました。 そして、先生の最初の言葉に、一同度肝を抜かれた。

 「君たちは、なぜここに来たのですか?」

 想定外の質問に、キョロキョロする者、うつむく者、固まる者、 誰一人応えることができず、五月蠅いほどの静寂が教室を満たしていました。

 「なぜ誰も応えない。」

 先生からの批判的な言葉に益々もって硬直する4年生達。 先生はクラスじゅうを見渡すようにして 誰かしらの手が挙がるのを待っている様子です。 僕は考えた。 なんでみんな応えないんだろう。 簡単な事じゃないか。 至らぬことを言って叱られるのがいやなんだろうか。 こういうときは応えちゃいけないのかなぁ。 いや、このまま固まっていても仕方がない。 言っちゃえ。 「ハイ!」と手を挙げた。

 「はい、君はなぜここに来たのですか?」

 なんと応えたかはよく覚えていませんが、おそらく 「勉強をしに来ました」とかなんとかありきたりなことを言ったのだと思います。 先生は、その内容にはコメントせず、「はい次」と別の答を募ります。 一人が口火を切ると後は気が楽になるもので、 さっきまで黙っていた級友達数人が次々と、 「友達と会うため」、「新しい先生に会うため」などなど、 さもありなんという答を挙げて行きました。 ちょうど田んぼの縁を車が通って一斉に鳴き止んだ蛙達が、 どの一匹とはなく最初に発せられた鳴き声を契機に合唱を再開するような格好です。

 先生は、ひとしきりの回答を得た後で、 発言をすることは大切だ、 これからはどんどん発言をするように、 といった内容のアドバイスをされました。 このとき僕はえもいわれぬ快感を覚えました。 何かが自分の中で変わった(生まれた)、 そんな印象を持ったことを覚えています。

 それからの毎日、先生は想定外の時間を織り込まれた。 例えば、当時は極めて珍しかったソニー製のカセットテープレコーダーを持参し、 日本に技術が育っていることを紹介されたことがあります。 これは、多分、指導要領の何処にも載っていなかったでしょう。 或いは、日本人はスポーツといえば野球だと思っているようだが、 野球をするのは日本や米国などごく一握りの国だけだ。 世界じゅうでプレイされているのは、サッカーという競技である。 欧州では皆サッカーをやっている、といったことを、 冷静な口調でありながら熱く語られたこともありました。 いずれも、当時の僕にとってさして興味のある話題ではありませんでしたが、 何やら我々の知らないことを伝えようとしておられたこと、 話題の先に何かがあるように思えたことを記憶しています。

 こうした、ある種教科書とは無関係な授業の中で、 自分の考え方、行動、そういったものの基盤が、好む好まざるに関わらず、 無意識のうちに培われていたように感じます。 小学生というのは、おそらくそういう年代なのではないでしょうか。 何を教えるかということももちろんですが、 何を感じさせるか、 何を考えさせるかといったことが、 想像以上に大きな部分を占めているように思います。

 この小学校は、ある種テスト校的な位置づけもあったのでしょうか、 当時は当たり前と思っていたが、実は特殊だったという部分が幾つかあります。 例えば、殆どの子が電車通学だったのですが、電車では座ってはならない、 前から2両目に乗車し進行方向を向いて整然と並んで立っていなければならない、 という掟がありました。 それから長ズボン禁止、冬でも短パンでなければならない。 風邪をひいた子には特別に長ズボンの着用が許可されるのですが、 友達にからかわれるのが嫌で余程のことでもない限り皆短パンでした。 極めつけは、運動場が土足厳禁。 運動場に入る時は裸足でなくてはならない。 足を怪我しないよう定期的に「石拾い」というのをやらされます。 おかげで、運動場は一見白砂青松(はくしゃせいしょう)が如き風情。 但し冬でも裸足ですから体育の時間は足の裏が痛いほど冷たかった。

 あのときの校舎と変わっていないのだろうか。 そもそも元の場所にあるのだろうか。 そんなことを思いつつ、確かこの方角だったと進んでいくと、 ありました、昔のままの校舎です。 それも、メンテナンスが良いのか、古ぼけて見えない、 唯一違うのは並木や中庭の木が大きくなっていること。 携帯電話のカメラを使い、外回りから撮影。 しかし、やっぱりそれでは飽きたらず、正門から侵入。

 確か100m走のタイムトライアルもできたから そこそこ広いはずと思っていた運動場は、 思ったよりもこぢんまり、蓋し白砂青松は相変わらず。 思えばサッカーゴールの印象が殆どない。 そういうものはあるのかと眺めれば、あるある、小さなサッカーゴール、それも6基。 ピッチを縦に取らず横に3面フットサル大のコートが並んでいます。 まさか裸足でサッカーをやっているのだろうか。 運動場に靴跡一つないところを見るとやはりそうなのかも。 是非その光景を見てみたいものだなどと思いながら 無人の運動場を次々撮影していると、

 「どなたですか?!」

 帰宅のため校舎から出てきた先生に呼び止められた。 そりゃそうだ、どこから見ても不審者状態です。 自分が古い卒業生であること、 出張のついでに立ち寄ったこと、 三十数年ぶりであることなどを伝えると、

 「じゃあ、浜田先生はご存じですか?」

と問われた。

 「え、ハマセン・・・いや、あの、浜田先生はまだおられるんですか?」

とつい渾名を口にしてしまう古い卒業生。 そりゃもうおられないが当時新任で来られた先生のはずとのこと。 僕は、ハマセンが体育の先生であり、課外活動でも 卓球部や体操部でお世話になったことを告げました。 当時、サッカー部なるもおのはありませんでしたが、 そういった小学校の部活動というのは珍しかったはずだし、 その小学校では浜田先生が最初の顧問であったのではないかと記憶しています。

 事務所に許可を取り、しこたま撮影をして帰路につく頃には、 もう日は西に傾き、黄昏れ始めていました。 今、曲がりなりにも少年サッカー指導に携わっている我が身には、 小学校というものが果たしてどういう場であったのかを改めて考えさせられました。 小学校での活動が、その子に如何なる原風景を提供するのか、 その子の心に如何なる礎を提供するのか。 引退した中田英寿選手が2006年7月3日に発表した「Hide's Mail」の冒頭、 「8歳の冬、寒空のもと山梨のとある小学校の校庭の片隅からその旅は始まった」 とあるように、小学校というものが、意識的にせよ無意識にせよ、 その子の人生の出発点となりうる特別な空気に包まれていることを感じました。

 帰りは、二駅離れた故郷の駅に一旦降り立ち、 通学路にありながら子どもの頃は滅多に入ることができなかったお好み焼き屋で一杯、 「一人同窓会」をやってから新幹線に乗るため京都に向かいました。

今も変わらぬ美しいグランドに柔らかい空気が満ちている
原風景の中の時計台は実際に今も時を刻み続けている
初年度は大学の深いプールだったが追ってこのプールができた
ぐいぐい水を飲んだ体育館横の蛇口、当時の水は美味かった
小さなサッカーゴールが3対、裸足でサッカーしているのだろうか
最初どうしていいか分からなかった平行棒、奥にジャングルジム
そうそう、校門には音符が踊っていたっけ、じゃあ、またいつか
懐かしのお好み焼き、ははぁ、マスタードが隠し味だったか
ビールをお代わりして焼きそば、うぅむ、太るわけだ、、、


--- 16.Aug.2006 Naoki

back index next