バーター

 「バーター」というのは英語の“barter”すなわち物々交換の意味ですが、芸能界にもあって「タバ」の逆さ言葉。 「ズージャ」(ジャズ)だとか「キーヤリート」(焼き鳥)なんかと同じですね。 売れない芸能人を束にして出す、なんてときに「バーターで」と言うわけでしょう。 カタカナ言葉は、気を付けないと、ジャポニッシュから芸能界の符丁まで様々です。

 「ソーシャル・キャピタル」という言葉があります。 これ、日本語に直訳すると「社会資本」となりますが、意味が変わってしまうので、「社会関係資本」などと訳されています。 ことさら社会学には暗いので正確な意味は分かりませんが、連帯的活動を伴う対人関係ネットワーク、あるいはそこから派生する一般的な社会への信頼感や相互協調的態度のこと(?)、を言うらしい。

 古くは何処にも地域社会があって、向こう三軒両隣は一種の社会関係資本だったのかもしれません。あるいは、地域で協力して田植えをしたり、屋根を葺(ふ)いたり、神輿を担いだり、お寺の檀家や神社の氏子だって社会関係資本だったのかもしれない。 社会関係資本というものは、個人的な幸福感と大きく関わるのだそうです。 数年前、或る大学生がいろいろなデータを基に仮説・検証を行ったところ、次のようなことが幸福感に関係するとわかったそうですから、そういった地域社会独特の幸せがあったのだろうと想像することができます。

  • 他人への親しみや接触
  • 対人関係の多様性(人数ではなくて)
  • 異なる領域の対人関係ネットワークとの相関性
  • 対人関係ネットワーク外の一般他者に対する信頼意識や協力的態度

 ところが近代、かつての高度経済成長期、若者たちは郷里を離れて都会に向かい、お父さんたちは出稼ぎをしたり各地の拠点へ飛ばされたりしました。 単身赴任、核家族化なんかが進みましたから、旧来の社会関係資本は衰退したことでしょう。 国が富んでいく一方で、多くの個人的な薄幸を招いてきたに違いありません。 その分、会社が地域社会の代役となり、生涯雇用を約束し、社員旅行を企画したり、企業スポーツを推進したりしていた。 部長といえば親も同然、部員といえば子も同然、今の若い方々には想像がつかないかもしれませんね。 ただし、一歩会社の外に出ると、そこはかとなく薄幸なムードが漂っていた。 1990年代にイッセー尾形さんが演じた独り芝居「都市生活者カタログ」から滲み出ていた疎外感、孤独感、悲喜劇は、地域社会という棲家を剥ぎ取られたヤドカリの柔らかい背腹を連想させたりもしました。

 こうして旧来の地域社会が失われていったわけですが、それに代わる社会関係を構築するためのインフラが普及して行きました。 先ず、電話です。 「電話連絡網」により、草野球チームやママさんコーラス隊などが仲間たちを結び、活動の場を提供するようになりました。 やがてパソコン通信から「ネットフォーラム」が生まれ、同種の趣味について語り合う広場が形成されると、「オフ会」と称してリアルな懇親会や発表会なども行われるようになっていきます。 さらには、昨今のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)。 マルチメディアを駆使した「仮想空間」で劇場型の情報を発信・共有できるようになると、オフ会どころか「仮想地域社会」が形成されるようになった。 恐ろしいばかりの個人情報搾取はあるにせよ、もはや社会関係資本にとって最大のインフラはSNSである、と言っても過言ではないでしょう。

 こうして、薄幸な現代人たちの心にSNSが侵入し、たいへんな勢力を形成するに至ったのだと思います。 仮想地域社会が、仮想の地元を提供し、仮想の幼馴染を提供し、それらを実社会へ還元する。 本来は赤の他人であったネットの仲間同士が、実社会において、さも家族や旧友や親類縁者のように集い、打ち解けあい、活動を共にする。 SNSが形成する社会関係資本が、人々を幸福へ導き、地域を興し、仁政を支え、継続的繁栄が可能な世界の種子になるのではないか、そういった楽観を抱いていないと言えば嘘になるでしょう。 ただ、その楽観に、どうしても違和感を抱いてしまう部分があります。 直感的にリスクを感じるのですね。

 まず、情報弱者の存在です。 SNSが好きではない、興味がない、使いこなせない、今でもそんな人は少なくないでしょう。 嗜好、関心、能力といったものは本人の問題だ、という考え方もある。 けれどそれらは、深刻な社会適応性の問題になりつつあります。 使えないことは欠点だ、使わないことは悪だ、という社会になってきている。 既に、ある種の格差が生まれています。 そこをボーダレスにできるかどうかが重要。 ですが、これは時と技術が解決してくれるような気がします。 優れた技術者は、大抵の場合、社会に貢献したいという欲求や使命感を抱いているものですから。

 次に、閉鎖性です。 同種の嗜好性、同様の目的意識を持つ者同士がSNSを共有し、対人関係ネットワークを形成し、相互利用と相互評価による信頼関係を構築していく。 それはいいんですが、かくして対人関係ネットワークによる閉鎖的社会が醸成され、一定の成果を生むに及べば原理的にネットワーク内相互の自画自賛が始まる。 やがてそれが目に余るようになると、ネットワーク外の他人たちに疎外感を振り撒き、意に反して溝を深めて行くんですね。 外の人たちをシラケさせちゃうだけならまだしも、なんらかの影響を与えてしまうと、積極的な拒絶や怒りまで買うことになる。 外の世界に対する楽観は禁物です。 では、内側はどうなのでしょう。 社会関係資本はヒエラルキーのない理想的社会を形成するかのような幻想を抱きがちですが、そうはいきません。 人類が農業を発明して定住生活を始めると、地域社会が形成され、求心的な宗教が力を持ち、祈祷師が支配し、役割分担が進み、軍隊が結成され、やがて国家が誕生しました。 同様に、閉鎖的社会が醸成されるにつれて、思想の統制、権威の誕生、役割の固定化、支配や隷属の関係も芽吹き始めます。 人間の特性と覚悟するべきでしょう。

 更に、これが最も危険なのですが、そういったネットワークが、イデオロギー、宗教、政治にとって、またとない楽園、あるいは垂涎の漁場であるという側面です。 ひと転びで、テロリスト集団、急進的新興宗教、好戦的圧力団体などの温床になりかねない。 なので、ただ楽観して身を委ねていれば良いといったお目出度い環境ではないのですね。 とんでもない、そんな侵略は許しませんよと守りを固めたところで、内部の不心得な個人が不心得な目的を実現するために利用しないとも限らない。 いや、既にそういった事例が後を絶たなくなってきたというのが現状でしょう。

 じゃあどうすんだぃ、ってことですけれども、比較的に分かりやすい目安があります。 その社会がちゃんと変化し続けているか、です。 社会が育成されるに従って、いろいろなものが蓄積され、それに比例して腐敗も進行します。 それは仕方ないんです、ものは腐るようにできてるんですから。 なので、腐るよりも先に自らを解体し、垣根を払って新しいものを組み入れ続ける、そうすれば結果的にその社会は腐らずに存続します。 閉鎖的で変化しない社会は、安泰のように見えて、実は危うい泥船なのですね。

 さて、いずれにせよSNSの勢力は今が絶頂です。 5G(第5世代移動通信システム)の普及を目前にして、あらゆる物がインターネットに繋がる“IoT”(Internet of Things)の時代に突入しつつありますが、顧みれば、携帯電話の一般普及から20年、iPhoneの発表から10年、あらゆる人がインターネットに繋がる“IoH”(Internet of Human)時代の渦中にいるわけですね。 2011年頃、米国で流行った “FoMO”(Fear of Missing Out)という言葉があります。 ネットに四六時中⾃分を接続していないと取り残されるのではないかという恐怖心を表す言葉ですが、言い換えれば、ネットが提供する社会関係資本からの疎外を怖れる強迫観念を指しているのだと思います。 情報は増えた、対人関係ネットワークは拡がった、実活動の場も確保できた、「繋がる社会」は充実した暮らしを提供してくれているように見えます。 が、引き換えに失ってきたものもありそうですね。

 2015年には、“JoMO”(Joy of Missing Out)という言葉が注目されました。 Christina Crookという人の“The Joy of Missing Out: Finding Balance in a Wired World”という著作に端を発したのだとか。 内容には不案内ですが、いろんなことが連想できる言葉だと思います。 一つは、情報の静寂。 情報は必要なのですが、溢れると処理が困難になります。 勢い、脳味噌はその上っ面を掠め取る程度に蓄積し、ステレオタイプに処理し始めます。 そうすると、楽しそうなことは楽しい、楽しければ良い、そういった短絡的な判断が習慣になってしまうでしょう。 もう一つは、考える時間。 駆り立てられずにしっかりと考えてみる、先入観を捨てて白紙から考え直してみる、そのためには、充分な時間と、強迫観念からの解放が必要でしょう。 解放され、自由だからこそ得られるものもあるはず。

 最近は少なくなってしまいましたが、思惟思索の代表的な場として、喫茶店がありました。 西欧風に言えば「カフェ」でしょうか。 カフェは、文化人たちが集い議論をする広場でもあったそうですが、一人コーヒーの湯気を眺めながら時を過ごす空間でもありました。 徒夫散人が生前よく通っていたので、よほどコーヒーが好きなのかと思っていたら、砂糖を何杯も入れるんですね。 そんなに入れちゃって美味しいんですかと尋ねると、「コーヒーが好きで喫茶店に来ていると思うか?」と問い返されました。 彼の娘も、遺伝なのか、なにかと喫茶店に通います。 本を読んだり、考え事をしたり、茫とするだけなら出かけなくても済みそうなものだけれど、そうじゃないんですね。 「名も知らぬ人たちが集っているザワザワした雰囲気」が良いのだといいます。 そのくせ、隣のオバチャン連中が五月蝿かったとか、近くのオジサンが咳ばっかりして寛げなかったとか、文句は言います。 それでも通うんですから、そういった匿名の空間が提供してくれる幸福感のようなものがあるのかもしれません。

 じゃあ自分はどうなんだぃ、と顧みると、どうやら地域社会に溶け込めない人間であるように思います。 思春期における遠地転校といったチャチな経験が絡んでいるのか、はたまた生まれ付いての性分なのかは判りません。 たとえば、ここだけの話、同窓会が基本的に苦手です。 何度か参加したことはありますが、足を運ぶ度に後悔しました。 旧友に再会できて悲しかろうはずはないのですが、なんとも居心地が悪いんですね。 自分の過去と向き合うのが苦手なんでしょうか。 現在暮らしているところは長く、様々な付き合いがあり、もちろん親しくさせて頂いています。 が、やっぱりどこかでスッと線を引いている自分がいます。 「快い孤独」といった格好のいいものを持ち合わせているわけではありません。 無性に人恋しい時もある。 初対面の飲み屋のオヤジや来店客と意気投合したりもする。 けれど、だらだらと付き合う気はない。 なにかの一員になりたくない自分がいつもいるんですね。

 こういう性分に得なことは何もなさそうなもんですが、無理矢理探せば、こういう性分でなければこれまで演奏してきたような楽曲は生まれなかっただろうな、とも思います。 どの集団にも属さないゾ、という自負もさることながら、一人で感じる時間、考える時間、そういったものを貴重だと思う(厄介な)性分が功を奏す場合もあるということでしょう。 もっとも、その性分のせいか、これといったプロモートもできず、聞いてくれる人は年々歳々減少し、音楽活動それ自体が早々に一巻の終わりとなるのかもしれませんが、ま、そこはバーターということで・・


--- 2018/6/12 Naoki


音楽が演奏者や楽団の内部で生存することはない。

飛んで行き受け止められて初めて命を授かるのだ。

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