仁義なきタタカイ

 会社の近くに中華料理屋があります。 ここのママは中国の遼寧省出身らしく、 料理人も全て中国人です。 料理は至って美味く、ボリュームも満点です。 薬膳料理が名物のようですが、 専ら鳥料理、豚耳、水餃子、干し豆腐(?)、皮蛋などを戴き、 意外に天津飯も美味く、木耳はびっくりするほど大きく、 刀削麺はもちもちとして実に食感が良い。 「食べるラー油」なぞブームの前からありましたし、 紹興酒もその辺で売っていないような五年物、八年物があり、 具材は本国産のものを取り寄せている様子。 唯一後悔したのは三蛇酒というやつで、 これは本当にハブみたいなのが三匹浸かってました。 味は優しいし、ホクホク温まるのですが、 見るんじゃなかったという後悔。

 その日も帰りに立ち寄ってみると、 見知らぬ中国女性が中国語でまくし立てていました。 ママが日本で知り合った友達とのこと、 でも「よくは知らない」らしい。 五月蠅い人だなぁと見て見ぬふりで食事していたら、 急に笑顔になって、日本語でこっちに話しかけてきた。 溶接の技術者(?)らしく、本国と日本を行ったり来たりしている様子。 震災や原発事故で外国人が逃げて行ってしまう昨今の日本ながら、 彼女は日本が嫌いではないらしい。 技術、サービス等々、日本は優れている、 それを学びに来ているのだといいます。 「ワタシ、ニホンゴ、ヘタダカラ」とか言いながら、 ペラペラペラペラ喋りまくっていました。

 ITの話、株式の話、いろいろ話し込みました。 原発の話、日本政府の問題、中国政府の問題、 政府というのはどの国も似たようなものだという話にもなりました。 しかし、その延長で、尖閣諸島問題等々、話題が少々深刻になってきた。 日本は好きだ、でも感情が許さないのだ、 そんなニュアンスが伝わってきました。 我々日本人が持っている理屈は百も承知している、 その上で憤っている、そのように感じられます。 確かにそうです。 理屈や史実で、人は納得するでしょうか。 否、感情が受け入れなければ、納得は得られません。 これは、感情論ではなく、真理に関する話です。 最先端の数学ですら、そのことに触れ始めています。 いわんや、感情の同意なくして、どうして政治が可能でしょう。 ちょっと思い立ったことがあったので、 彼女に以下の説明をしてみました。

 政治家は、現代日本のエリート達に違いない。 如何せん、日本の戦後教育には、不備があった。 学生運動以降、現代史の詳細は隠蔽されるようになった。 僕の世代は、そのころに青少年期を送っている。 確かにそれも問題だろう。 けれど、もっと根本的な問題があったと思う。 日本の教育は、以下の三つの文字だけは教えてきた。

知 理 意

 僕は紙片に漢字を書いて彼女に見せました。 中国でも同様の意味なのかよく知らないので確かめたのです。 知識・知力の「知」、理性・理論の「理」、意志・意図の「意」。 どうやら意味は合っているようです。

 でも、一つ、この字を教育してこなかった。 むしろ、疎んじられてきた字かもしれない。

 情緒・情熱の「情」です。 僕は、十数年、少年・少女サッカーに関わってきました。 その関係で、インターネットの掲示板に 「叱りません、でも怒ることはあります」と書いたら、 他県のコーチや保護者の方々から 「怒ってはダメです、叱るんです」 と叱られたことがあります。 多勢に無勢で黙りましたけれど、今でも思っています、 叱っちゃダメだ、怒ってみせるんだと。 喜んで、哀しんで、楽しんでみせるんだと。

 如何せん、中国女性は その意味を汲み取るのに少々時間を要したようです。 今話した感情の「情」ですねと説明したら、 ああ、分かった分かった、そうそう、と、 一応同意して見せたような反応でした。 そこで、もう少し踏み込んでみることにした。 この字を学べば、この字が導かれるはずだと言いながら、 上矢印を引いて、その先にもう一字書き入れたのです。





 その字を見たときの彼女の表情が忘れられません。 それこそ京劇のようにカッと目を見開き、 驚きとも、感動ともつかぬ表情でした。 ああ、やっと通じたなと思いました。 この字について我々は教わってこなかったのだと補足しました。

 我々日本人の多くは、この字の意味をあまりよく知りません。 仁侠の「仁」、仁義の「仁」です。 それゆえ、アウトローだとか、 暴力的な世界での絆のような意味に捉えています。 本来の意味は全く逆で、いわば博愛、人間愛のような意味のようです。 理屈はどうあれ、規則はどうあれ、「人の道」というものがある。 それが何ものにも先んじて尊ばれるべきなのだという、 その「人の道」のようなものが「仁」の意味するところなのですね。

 僕が何でこの字を知っているかというと、 子供の頃視たNHKの人形劇「南総里見八犬伝」、 これは世界に飛び散った八つの水晶珠を集める物語ですが、 各々の珠に書かれていたのが、 「仁」、「義」、「礼」、「智」、「忠」、「信」、「孝」、「悌」 という八つの文字。 その意味を学んでいく物語なのだろうと憶測しつつも、 根気のない性で、全然学ばなかった。 でも、先頭が「仁」だったということは、 どうも頭の片隅に引っかかっていたのですね。 「仁義」って中国から来たものなのかなと。

 それを、たまたま読んだルース・ベネディクト女史の ベストセラー「菊と刀」で再び目にしたわけです。 「菊と刀」は、太平洋戦争の最中に調査された、 ある意味、日本に住んだこともない米国子女の、 ある意味、表皮的で短絡的な、 ときとして、突飛な日本人解釈の本なんです。 けれども、知らないことは強みでもあって、 日本人自身が鈍感な、ものによっては気付かずにすらいる 独特の文化人類学的視点を与えてくれたのです。 日本人が「仁」という字の意味を歪めて輸入した というのは、この本の受け売りに過ぎないのですが、 その中国女性に伝えたかったことを代弁するには相応しかったのです。

 本来、日本人は、情の民族だと思います。 情緒を大切にし、人情を尊んできました。 けれど、教科の要素ではなかったように思います。 道徳とか公民といった教科はありましたが、 これは専ら社会の規則を学ぶものであり、 理念的なものとして命を大切にしよう などと学んだように思いますが給食は食べていた。 当時のステーキは鯨肉でしたが、牛なら許される道理はない、 牛も生きているわけですからね。 だから、命とは何か、命を大切にするとはどういうことか といったそもそも論は学んでこなかったわけです。 そもそも、机上だけで学べるものだったのかどうかも分かりません。

 「情」という字に感じていたことは、 なにかねちねちしたウェットなイメージでした。 当時は和製フォークというのが流行っていましたけれど、 米国のフォークソングは叙事詩的なのに、 どうして日本の歌はこうも叙情一辺倒なんだとも思いました。 言語的な縛りかと思えばさにあらず、 昨今の和製ポップスはきわめて叙事的な歌詞になっています。 決して叙事的が良くて叙情的が悪いだとか、 その逆だとかを思ったわけではないのですが、 とにかく異質だなと思いました。

 では、このような叙情的な嗜好、 情緒的な共感というのはどこからくるのだろうかと考えた。 歴史的な何かか、地理的なものか、あるいはDNAと何か関係あるのか、 因縁因果はよく分かりませんでした。 ならば、知、理、意と情とはどこが違うのか、 一つ分かったことがあります。 知、理、意は後天的に得るものだが、 情は先天的な何か、最初から備わっている何かのような気がします。 これは日本人だけのものではないはず。 海外で生まれ育った人にも、情緒的な共感はあるように思います。 それを踏まえ、「情能到仁(情よく仁に至る)」 みたいなことを言いたかったわけですが、 この即席四字熟語は、どうなんでしょうね。 ママに見せたら、「情」のニュアンスがどうも分かり難いような。 もしかしたら、「情」という言葉には、日本語独自のニュアンスがあるのやも。

ママは実は年上らしい。 娘さんは社会人らしい。 美貌を保っているのは、 薬膳料理の効用なのか。
棒棒鶏麺は、平皿/ボウル、 茹で鶏/唐揚げ風と毎回違う。 レシピはないのか。 だが各々美味い。

--- 3.Aug.2011 Naoki
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