根も葉もあるお話

 僕はベランダに幾つか鉢を置いています。 雨が降り込まないベランダなので、水やり必須です。 けれど、忘れてしまったりして、結構過酷な状況。 中でも、皿で受けず、鉄製のスタンドの上に置かれた鉢は、 水がどんどん落ちてしまいますから、最も過酷な環境です。

 そんな環境なのに、逞しく茂っている観葉植物がいます。 よほど水が欲しいのか、鉢の外に髭のような根を伸ばしていましたが、 むなしく空中にぶら下がるばかり、 事実上は気根のようになってしまっていました。 ところが、ある日よく見たら、 いつの間にか直径1cm近くはあろうかという太い根が1本、 水脈である溝に達していたんです。

 どうしてこういうことができるのか、 何本も根を出して自然淘汰に任せるのか、 たまたま水が落ちていく方向に根が伸びる仕組みがあるのか、 両方とも正しいと思いますが、どうもそれだけではない、 そんな気がしてならないのです。

 花になりたいと思ったカマキリが花のようになり、 水の上を走りたいと思ったトカゲが水の上を走れるようになり、 空を飛びたいと思った魚が空を飛べるようになり、 そうなりたいと思い続けることでそうなったのではないか。 そういった進化の場合は、 もちろん一代では実現しなかったでしょうが、 何代かを重ねる内に実現した。 何代にもわたって望みを持ち続けたんですね。 我々の考える一生というものは、 そういった「生命」にとってみれば、 人生の中の一日のようなものなのかもしれません

 こういった根の伸び方や、進化の歴史を、 単なる物理や化学、統計的手法だけで説明できる人はいないでしょう。 現代の科学が扱えるのは物質だけです。 宇宙に存在する物質はわずか4%、 ダークマターと呼ばれる謎の物質が23%、 ダークエナジーというますます謎の質量が73%だそうです。 脳の働きとて、物質的側面からだけでは説明がつかないそうです。 斯様に、物質科学だけではとても世界を語れないのだけれど、 我々は物質科学が全てだと思ってしまう、 これは常々感じている現代人退化の一つの根拠です。

 生まれ故郷の奈良では、遷都1300年ということで、 文化財の補修なんかが行われましたけれども、 鬼瓦、あれって大きいんですね。 お寺の屋根の端っこにあるから小さく見えるけれど、 地面に置くと巨大で、何トンという重さのものもあるんだそうです。 偉い大学の先生方や一流の職人達でレプリカを作るところまではできても、 ちょっと置いておくと自分の重さで割れ始めるんだそうです。 一体どういうノウハウがあったのかさっぱりわからない。 ましてや、クレーン車もない時代に、あれをどうやって大屋根に上げたのか。 この手の話は、きら星のようにあります。 ちょっと昔の人は、頭が良かったんですね。 現代人は、知識があるようでけっこうない、 理論では解き明かせていないことも多々ある、 ということですね。

 科学というのは、産業革命をもたらして、 おかげで人類は「豊か」になりました。 良い例を、アソシエーション・フットボール、 すなわちサッカーに見ることができそうです。 英国のパブリックスクールの師弟しかできなかったサッカーは、 19世紀半ば労働者の間でもプレイできるようになり、 やがて植民地においてもプレイできるようになり、 20世紀には欧州のみならず南米でも盛んになりました。 産業革命がなかったら、こうはならなかったかもしれません。 何が「豊か」になったのかというと、時間ができたのですね。 労働者というのは、その昔は、奴隷のことです。 日夜働いて、余暇などは望むべくもなかった。 ところが、動力が、彼らの負荷を軽減したのですね。 支配者階級、労働者階級、植民地、そして20世紀後半、 最後にプレイできるようになったのが、女性達です。

 まぁ、いろいろとご意見ご不満もおありでしょうが、 いずれにせよ、このように時間が出来て良かったですね。 人生とは時間そのもの、大切な時間の捻出は、人生を豊かにします。 もちろん、労働にも生き甲斐を見出して良いのですけれども、 生業が人生の全てなんてことはあり得ないだろうと思います。 一人の時間、二人の時間、皆との時間、様々な時間が全て人生です。 時間は貴重品で、命を買うことができないように、時間を買うことはできない。 せいぜい延命とか延長とかいったことは計れるでしょうが、 ダイヤモンドやスポーツカーのように、買い取ることはできませんね。 今や世界は、大きく二つの難民で形成され始めているとも言われます。 一つは食料や安全が欠乏している本来の難民、 もう一つは時間が欠乏している都市の難民です。

 人々を豊かにしてきたはずの産業革命、 その根本にあるのはどのようなものでしょうか。 科学と、それを応用する高い技術でしょうか。 必要を母とした発明と、献身的な実現努力でしょうか。 それは確かに必要だったのでしょうが、根本というのじゃない。 太古の昔の、シダ植物や裸子植物なんかが栄えた、 その化石燃料を消費すること、これが産業革命の根の部分ですね。 だから、科学万能の時代と言われましたけれど、実は万能ではなくて、 植物の光合成の恩恵を利用できるようにしただけなんです。

 その光合成ですけれども、 クロロフィル(葉緑素)の構造は解き明かされましたし、 人工的に製造することもできるようです。 韓国には、電気自動車を通り越して、 「人工光合成」で走る車を考案している自動車会社もあるようです。 もし実用化されれば、画期的なことであると思います。 けれど、まだ科学では、葉緑体を作り、 十分なエネルギーを得ることはできない。 太陽電池で太陽エネルギーを利用できるようにするのですけれども、 二酸化炭素を取り込んで酸素を供給するといった芸当はできない。 アゲハ蝶の子どもをはぐくむことも、 色づいて景観を潤すことも、枯れて土を肥やすこともできない。 そして何より、自ら芽吹き、成長することができない。

 たった葉っぱ一枚の仕事さえ、科学では実現できないわけです。

 生命というのが如何に緻密で大胆かといういうことと、 科学というのが如何に大雑把で不器用かということを、 やはり現代人は謙虚に受け止めるべきだと思うのです。

 最初は茎くらいしかなかったようですけれど、 根があって葉がある、これが植物の基本形です。 彼らはいち早く上陸して引き続き大気圏、ことさらオゾン層の形成に貢献し、 有害な電磁波の地上到達を抑制し、木陰を作り、新たな生態系誕生の準備をしました。 中生代後半、まだまだ恐竜の時代だったわけですが、被子植物が誕生します。 種の交配を手伝ってくれる昆虫を誘うため、葉を変形させ、花を咲かせました。 種を運んでくれる動物へのご褒美に、実をつけました。 こうして、今の時代へと進化してきたわけですね。

 産業革命は、それらの生態系を ほんの200年あまりで駆逐してきました。 つまり、科学というのは、何かを創造しているように見えて、 実は過去の遺産を消費することが動力だったわけです。 競争原理は、豊かな社会と文化的な生活を生み出したように見えて、 実は弱者から搾取することが動力だったわけです。 そういった動力が、根本的に問い直される時代に入ったのでしょうね。


--- 13.Sep.2011 Naoki
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