蝉の良識

 二十数年前、本牧に米海軍が駐屯していた頃、あるパイロットの奥さんと時々遊びました。 ゲイルとか言いましたか、ブロンド髪の若くて健康的な白人女性です。 旦那が不在がちで暇を持て余していたのでしょう、家にも何度か招いてくれました。 ゲイルの座右の銘は、“EASY”でした。 日本では、「おまえの考え方はイージーなんだよ」とか、「あいつはイージーな奴だ」というふうに、この言葉を否定的に用いる傾向があろうと思いますが、米国人にとってこの言葉は肯定的なニュアンスを持っているらしく、「心休まる」とか、「合理的」といった意味で使われるようです。 例えば、ゲイルは箸について、「最初はクレイジーだと思っていたけど、使ってみるととてもイージーだと分かったわ」という感想を漏らしていたことがあります。 二本の棒で飯を食おうなんて馬鹿げていると思っていたが、実は合理的だったというわけです。
 当時の米軍の居留地は、パブのリキシャルームなんぞでお馴染みの小港町から本牧一帯を覆い根岸の森林公園を越えて滝頭方面に及ぶという広い地域で、ゲイルの家があったのはその中央部、現在本牧マイカルなる大店舗のある付近ではなかったかと記憶しています。 広々としたエリア一面に芝生が敷かれ、ペンキを塗られた木造の四角い家屋が建ち並んでいましたが、これら家屋にはどうやら地域規模のセントラルヒーティングが施されていたとみえて地下に温水路が敷かれており、温泉地でもあるまいし冬なぞは路側から湯気が立ち上っていました。 夏は屋内のクーラーを使っていましたが、少なくともゲイルの家では常にフル回転。 寒くてたまらないと感じるほどでした。 友人のスイカ男、彼は人一倍洞察力のある口の辛い男でしたが、彼と一緒にゲイルの家を訪れたとき、何故そんなにクーラーをかけるのか尋ねたことがあります。 ゲイルの答えは、「だってその方がイージーだもの」でした。 スイカ男は、「違う」と指摘しました。
 スイカ男は、何を話す上でも「いや、…だ」というふうに、「いや」という言葉を接続詞代わりに用いる男でした。 相手の言っていることがとりわけ納得できないというわけでもない場合でさえ、取り敢えず「いや」と切り出すのです。 よく、「そうだね、でも‥」という受け答えをする人がいますね。 先ず、相手の主張を受け入れたという意思表示に「そうだ」と切り出し、しかし自分の見解にはズレがあるので「でも」と翻る。 この方が当たりが良いので人間関係がスムーズに運ぶと思いますが、必ずしもこのような人は信用できません。 むしろ、なんでもかんでも「いや」から話し始める人は、独善的で突き合い辛い傾向がありますが、真剣に話さざるを得ない状況に自分を追いやっている分、信用できるというものです。
 スイカ男は、ゲイルの見解、すなわち“EASY”だということを“NO”と一蹴して話し始めました。 クーラーを寒いくらい掛けていると、外に出たとき余計に暑く感じられる。 従って、買い物に出かけるのも、公園で遊ぶのもハードになる。 だから、ちっともイージーじゃないというのです。 節約を美徳とする日本人的な価値観とは違って、過剰消費に無頓着な米国人が、果たしてどのくらい納得したのか、そこから先の会話はよく覚えていません。
 それにつけても、昨今の夏は暑く感じられます。 実際、昔は30℃を超えると猛暑と考えたものですが、最近体温並の真夏日はざらになってしまいました。 地球温暖化のせいでしょうか。 特に、昔は夕方になると涼が戻ってきてほっとしたものですが、最近は蒸し暑いままです。 先日、山梨県の忍野という高原に行って参りましたが、そちらの場合、日中はやはり暑いのですが、朝は寒いくらいの涼しさでした。 これには、たぶん標高が高いからだとか内陸だからとか、そういった原因があるのでしょうが、更に、人工的な環境にも原因があろうかと思います。
 やっぱり都会は暑い。 岐阜県出身者も九州出身者も、東京の暑さはこたえると言ってました。 気化熱を放射するほどの樹木はなく、アスファルトやコンクリートは日に焼けて熱気を蓄えてしまう、それに大量の自動車が往来する。 環状八号線という幹線道路の上には、有名な環八雲が発生するというくらいですから、気象をも変化させてしまっているわけです。 もうひとつは、エアコン、クーラーでしょう。 大変ありがたい機械ですが、ご存じの通り、あれは冷気製造機ではなく熱交換機です。 屋内を冷やした分、屋外を暖めているわけです。 夏になると何百万というあの機械が一斉に稼働するわけですから、都会の暑さにますます拍車が掛かるというものです。
 大脳新皮質系に奇跡の進化を遂げ、道具を用いるだけでなく、道具を生み出すことをも可能となった人間様。 しかし、その人間様の知恵というものは、自分も含めて、まだまだ滑稽なくらいマが抜けているというのが現状でしょう。 街灯のお陰か暑さのせいか、夜でも蝉がシャンシャン鳴いています。 横浜に出てきて二十数年、こんな夜蝉の声にも慣れましたけれど、あれは殆どアブラゼミのようです。 他の蝉達は、どうやら彼らの良識の名の下に、そういうハシタナイことはしないらしい。 夜中にミンミンゼミまで鳴くようになったら、嗚呼、想像しただけでも風情のない世の中じゃありませんか。
 ほんの一週間で成虫としての生涯を終える蝉達。 彼ら成虫の使命は、幼虫が生息できる土地に卵を残すことです。 そのためには身の危険を省みず、オスは大声で存在を主張し、メスは地に降りて産卵します。 蝉の声は、時として五月蠅く、時として情緒豊かな、また小さな命の風前の灯火のようでいて、脈々と受け継がれ永年営まれている力強いメッセージでもあります。 人間の生涯というものも、長いのか短いのか難しいところですが、限りあるということは確かなわけで、無に帰することは確かなわけで、ならばどうするのか、君はどうするのか、私はどうするのか、そういうことをよく認識しているのはむしろ蝉達の方かもしれない。 人間の成虫、基、成人というのは偉いので、知能指数や経済指数というものがあって、経済は成長を続けなくてはならず、土地は開発され続けなくてはならず、物は作られ続けなくてはなりません。 我々は現在でもこの尺度を元に行動の根拠を求めていますが、昨今ようやく異を唱える人々が多くなってきているのではないでしょうか。 我々の良識が試される時代です。

--- 5.Aug.1999 Naoki

更新 --- 20.Aug.1999 Naoki

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