桂枝雀さんを偲んで


 1999年4月19日、桂枝雀師匠が帰天されてからもうすぐ1ヶ月です。 新聞をとっていない上、テレビなどをあまり見ていなかったため、この悲しい出来事を知るのに少し時間がかかりました。 入院されていることは知っていたのですが、必ず全快されると信じて疑わなかったということもあります。
 僕は、関西にいる頃から、師匠の話芸が楽しみでした。 (その当時は桂小米と名乗っておられたと思いますが)。 大学に入ってからも、友人と一緒に、テレビやラジオなどから収録したカセットテープをやりとりして楽しんでいました。 代書屋、不動坊、壷算、饅頭コワイ、親子酒、くしゃみ講釈、閻魔と茶漬けなどなど、二人とも殆ど完全コピーで真似ができる程になっていました。 三十を過ぎてからも、CDを買ったり親友からプレゼントに貰ったりしました。 船弁慶、夏の医者、鴻池の犬、崇徳院、貧乏神、首提灯、植木屋娘などなど、枝雀さんが敬愛されたという古今亭志ん生さんや、師匠の桂米朝さんのCDよりも沢山集めました。 イッセー尾形さんのVTRと桂枝雀さんのCDというのが、僕と当時の親友の共通の宝でもありました。
 師匠の高座を直接見ることが出来たのは、後にも先にも一度きりでした。 忘れもしない1995年1月17日、阪神大震災のあったその日、東京で高座があったのです。 あの日、我々関東の住人には殆ど情報が届いておらず、どうやら朝方神戸で大きめの地震があったらしいといった程度の認識でした。 おそらく、枝雀師匠がお住まいの地域にも相当な被害があったはずですが、師匠は何事もなかったかのようににこやかにしておられました。 (地震のため)お弟子さんの到着が遅れているということで、「前座とトリを逆にしましょう」などと言っておられましたが、途中で到着したらしく、「到着はしたんですが、背広のままなんですね。背広のまままではちょっと具合が悪ぅございますので、いま慌ててズボンを脱いでおります」などと実況中継をして、会社帰りにフラリとやってきた我々を笑わせておられました。 その日は、愛宕山や貧乏神などを披露され、いつに違わず、場内は腹の皮が捩れんばかりの大爆笑の渦と化していました。 大変な日に、幸せを撒きに駆けつけられた、「この一期一会を、あだやオロソカには思っておりませんよ」という師匠の、巧く言えませんが、愛のようなエネルギーに、何も知らずに立ち寄った我々は笑いと幸福感を戴いて帰路についたのです。
 Forest Song の一連のエッセイの中には、時々師匠のことが引用されています。 もっとこの世にいて欲しかったというのが正直な気持ですが、この場を借りて、敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。 師匠を愛する方々は大勢おられますし、師匠の遺産は永く愛され続けるでしょう。 インターネットにも、松本留五郎の部屋なるものがあります(風呂屋の向かいでしょうか‥)。 師匠を愛する方々や興味をお持ちになった方々は、是非訪問されては如何でしょう。

桂 枝雀 師匠
(1940-1999)
--- 10.May.1999 Naoki


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