3.11

 あれから10日が経ちました。 そのときどうしていたか、そのあとどうなったか、 自分にまつわる話は殆どどうでもいいようなことばかりです。 ただ言えることは、未曾有の災害が、立て続けに少なくとも三つ、 同時に発生したということです。 日本に案外、やっぱりというべきか、脆い面があることも思い知りました。 スーパーコンピューティング、太陽光発電、ロボット工学など、 世界に冠たると思っていたことが誇大広告だということも分かりました。 ここまでの津波はシュミレートできなかったわけだし、 火山帯で地震帯のこの狭い国土に世界3位の(殆ど2位と肩を並べる)数の 原子力発電所を有していることを改めて知ったし、 いざというときロボットは活躍せずむしろ海外から借りなければならないという なんともガッカリさせられる現実を知りました。 けれど、日本人の情というか、そういうメンタリティーが健在である ということには、胸を張って良いのではないかと思います。

 亡くなった多くの方々、 今まさに過酷な現実に直面している膨大な方々、 間接的に影響を受けて狼狽し片っぱしから物を買いあさる人々、 己の生活のため空き巣に入ったり義援金を盗んだりする者、 現地に飛び込み命がけで人を守りライフラインを繋ぐ方々、 同国の住民でありながら今一つ実感が湧かず今まで通りの生活を続ける人々、 身を呈してお年寄りを守る若い人たち、 家族を置いて現地に飛び込む警察官、消防士、自衛官、予備自衛官、 励ましあっている方々、 勇気づけている方々、 いろんな人たちが今この国を構成しています。

 ここ、横浜はどうでしょうか。 地震による施設倒壊で死亡者こそありましたが、 その後は計画停電に悩まされ、非常食やガソリンが不足している程度。 かつて青春時代を過ごした根岸の石油コンビナートが、 原油精製のために再稼働を始めたと聞きます。 東北への燃料補給の強化が期待されます。

 38年ほど前になりましょうか、根岸に越してきた夜、 マンションの屋上から眺めた星団のような 大コンビナートの明かりと海と重油の臭いを思い出しました。 辺りにはまだ米国海軍の駐屯地が広がっており、 日本最大級の貿易港である大黒ふ頭がフル稼働し、 港湾労働者たちが溢れ、ハマトラの美少女たちが行き交い、 ツッパリたちが闊歩していた如何にも横浜らしい横浜で、 現在のようなベッドタウンとは趣を異にしていました。 思えばその頃は尻の青い中高生だった自分が、 大学に入ってもさして変わらず、社会に出てもとんと変わらず、 ただ齢だけを重ね、今この時こうして息していることの自覚は、 時間というものの不可解さと儚さを思い出させてくれます。

 外食奨励とのお達しを逆手にとり、 会社帰りに最寄りのレストランでパスタをと立ち寄ると、 「あっ!」と呼び止められました。 そのウェイトレスは、今の少女サッカーチームが立ち上がる数年前、 「蘇れユニホーム」 でご紹介した、いわば真の初代OGの一人です。 そのレストランにいることは知っていたのですが、 ここ半年は見掛けませんでした。 きっと大学を卒業する支度で大変だったのでしょう。 「良かった、今日でここ最後なんですよ」と彼女。 就職難にも屈せず、頑張って念願の保母さんに内定したのです。 未来に旅立ち、未来を築いていく若い人たち。 我々にできることは、彼ら、彼女らの時間が充実したものになる、 その元になる土地を、町を、国を、環境を 置いていくことなんだろうと思います。 そのために何ができるのか。 昨夜は春の風が吹きました。 今夜は冷たい雨です。

お菓子をくれる彼女
ワインをくれる彼女

--- 21.Mar.2011 Naoki
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