天命

1997
1999
2007
2009
2017

 昨日、50歳になりました。 昨日が誕生日という人には、 放浪画家の山下清さん、 名俳優の渥美清さんといった方々を筆頭に、 綺麗どころでは歌手の松田聖子さん、 女優の藤谷美和子さんといったスターが並びます。 列外一名、つぶやきシローさんなる芸人もいらっしゃる。 海外では、 女優のシャロン・ストーンさん、 野球のランディ・ジョンソン投手、 サッカーのエトー選手、 アルカイーダのウサマ・ビンラディン氏もそうなのだとか。 歴史的には グラハム・ベル博士が電話を発明、 有名な「ワトソン君、ちょっとこっちに来てくれないか」はこの日というから、 小生が通信機開発を生業にした(今はIT機器ですが)のは何かの縁か。 他に、東京大空襲、チベット蜂起といったキナ臭い話もありますが、 サイモンとガーファンクルが始めてレコーディングしたのも3月10日と聞いています。

 ともあれ、チベット蜂起共々、ハーフ・センチュリーであります。 あんまりピンとは来ないですけれどもね。 はっきり言って三十から後は光陰如矢、烏兎匆匆、一瞬でした。 ドラマ「北の国から」に、 「ジュン、男はなぁ、二十(はたち)過ぎたらすぐ四十だぞ」 という名台詞があるのだそうですが、実によく言えてますね。 で、四十過ぎて五十なぞは、まぁ、10ヶ月くらいですよ。 いったい何年生きてきたんだか、勘定も覚束ない(だから50年だって)。 卯建が上がらんとは、このことでしょう。 最近ジェフ・ベックと一緒にプレイしているベースギターの タル・ウィルケンフェルドという若いお嬢さんを見ました。 やれやれ、自分は何年ギター握ってるんだと情けなくなりました。 曲芸的に上手いんだったらさもありなん、まだ諦めもつくんですが、 音楽的に熟成していて尚且つ若々しく尚且つ魅力的。 もっとも、プロで活躍しているベーシストの方にも彼女のプレイを目にして 「オレもう弾く気失せた」と吐露した方がいらしたと聞き、 幾許かの慰めにはなっております。

 四十を過ぎて実感したことといえば、基礎的な体力、 仕事の粘りとかそういうんじゃなくて、単に跳ぶとか、走るとか、 そういった基礎体力が著しく低下しているなということです。 もともと体を鍛えてきた方ではありませんから無理もないのですが、 先日は小学生の女子から「デルピ、走るの遅くなったね」と指摘される始末。 そういえば、以前審判資格をKFA(神奈川県サッカー協会、韓国じゃないですよ) が扱っていたときは、一番下のランクでも50歳定年制でした。 10年も審判を勤めると更新講習で表彰され皆に拍手されていた。 JFA(日本のサッカー協会)が扱うようになってから、 定年制の話はトンと聞かなくなりましたし、 もう11年以上笛吹いてますが特段なにか褒めてもらえるわけでもなく、 指導者資格の更新料共々年々歳々淡々と寺銭が引き落とされるばかり。

 とはいえ、大台に乗ったわけですから、 これは何か気持ちを一新するなり、根性を据え直すなりして 次なる十年に臨むのも悪くはなかろうと考えました。 十年前、四十は「不惑」とも呼ばれるのだと知り、 惑うことばかりなのに不惑とはこれ如何にと感じた記憶があります。 むしろ不惑を志すあまり、考えが硬直化して進歩しなくなり、 単なる頑固爺になるのではないかと疑義を覚えたほどです。 しかし、四十も過ぎて惑ってばかりというのは如何にも情けない。 何か信念のような、信じるものを得るべきであるというのは確かで、 遅まきながら小生にも、そういう道理というか、そんなものに 気がつき始めたというか、体感する機会が増えたというか、そんな気がします。 具体的にどういうことかというと、なんと言うかまぁ、己と牢獄の関係かな。

 自己実現という言葉があります。 悪い言葉ではないですよね。 ああもなりたい、こうもなりたい、若い人には欠くべからざる願望です。 そのためには、自己主張も、自己表現も必要です。 人は、自己実現のために邁進するのだ、 そういうことは信じて疑ってこなかったですよ。 でも、四十過ぎた辺りから、それ、 若い人たちに必要な準備運動みたいなものだな、と思うようになったんです。 自己実現のために、人は自分の内外を区別します。 自分という入れ物の中と外です。 ところが、実世界にとってみれば、そんなのなにものでもない。 では、自分という人が、物質的にも精神的にも、 外とは独立して存在しているのかというと、どうもそうでもない。 自己実現という言葉は、自分を自分という牢屋の中に閉じ込める呪文でもあるんですね。 本当にそれが最終目的なんだろうか。 逆に、音楽にせよ、スポーツにせよ、無心になっているときというのは自他の区別がない。 その間、自分の存在は消滅しているのかというと、そうでもない、 むしろ普段よりもっと存在している。

 はいはい、わかった、わかった、四十は不惑ってことでいろいろあったのね。 で、五十はどうなのよ、ってことなんですけれども、 五十って他になんて言うんだっけ? ってそもそも知らなかったわけです。 調べました。 「天命」って言うんですね。 論語からきているようです。


吾十有五而志於學
三十而立
四十而不惑
五十而知天命
六十而耳順
七十而從心所欲不踰矩
( 「為政第二」より )

 「五十にして天命を知る」ということなんだそうです。 この「天命」に関しては様々な解釈があるようですが、小生はシンプルに捉えたい。 「天」の「命令」って意味でしょう? 要するに、 何故お前はこの世に生を受けたのかってこと、 それを知るのが五十だって訳になりますよね。 「なぜ」を知る、 ならば「なに」をするか、 そのために「どう」生きるのかです。 若い頃の夢とは、自己実現を意味していました。 その対角にあったのが環境です。 一般的に、コドモにとって、環境とは与えられるものです。 しかし、オトナにとっての環境とは、自ら作るべきものなのかもしれません。 それはちょうど、人類と地球の関係にも似ています。 もはや、自他を区別するような営みは、目的の座から退かなければなりません。 かの岡本太郎画伯が、死とは何かを問われ、 「ひらいて、ひらいて、ひらききって、どうと倒れること」 とおっしゃったのだそうです。 ひらく営み、まさしくそれが、本番に値すると思うのです。

 五十になって最初の晩に見た夢、 出てきたのは以前一緒にバンドをやっていたベーシストでした。 タル・ウィルケンフェルドとは言いませんが、そんな感じの人。 何か会話を交わしました。 よく覚えていませんが、小生は何かしら弱音を吐いていたのかなぁ、 すると彼女が、「結局それって極めるってことでしょ?」と言った。 励ましてくれたんですね、そこだけハッキリ覚えています。 それからまたムニャムニャとした夢に戻り、 朝方には森光子さんが出演していらした。 たいしたもんです。。。


--- 11.Mar.2009 Naoki
back index next